027:擬態
追いかけてはこない。
靴の音だけが空虚に響く結晶迷路の中、シェフィールドは心底安堵した。
最高の形だった。これ以上ない別れ方だった。
これでもう、リムはシェフィールドという影に縛られずに生きていける。その胸中に酷い傷を負うことになったとしても、もうダンジョンで命を落とすことはないだろう。
彼にとってシェフィールドは唾棄すべき帝国の皇女であり、最大の仇なのだから。
「……っぁ、だめ、だめ、だめだめだめ」
震える喉を、嗚咽が混じりそうになる声を、視界が滲みそうになるのをシェフィールドは必死で抑える。
そんな資格は自分にはない。喜ぶべきなのだ。彼を解放できたことに。
今日までの出来事は全て泡沫の夢。いつか弾けて終わることが決まっていたのだから――。
『ファブラス卿。本当にその手段しかないのでしょうか』
『君が家を再興したいと思うのなら』
『……こう言ってしまっては誤解を生むかもしれませんが、私自身家の再興自体に執着はありません。それよりも私は、帝国の在り方そのものに疑問を抱くのです。何故こうも敵を作り続けるのか。他者を排すだけが道ではないはずです』
『アンティックルベウス家当主としてはその発言、聞かなかったことにしておく。だが、なおのこと、いまの帝国において力を持たぬ者に現状を変える資格はない。皇帝陛下に謁見することすら不可能だろう』
『…………』
『よく考えることだ。もしクリファへ向かうというのなら、最低限にはなるが援助させてもらう』
家が没落してもシェフィールド自身が亡き者にならなかったのは、同格だったアンティックルベウス家当主が後援者に名乗り上げてくれたからだった。
そして、ダフクリンを護衛にクリファを目的地とした旅へ出ることとなった。唯一の友人である侍女にも黙って。
国宝【センテイケン】を持ち出したため、追手が差し向けられることはわかっていたが、ファブラスの根回しのおかげか追い付かれることはなかった。
しかし、クリファへの道中休息に立ち寄るはずの村で帝国が虐殺を行っていた。
リム・キュリオスの暮らしていた村だ。
何故あんな場所にいたのか。恐らくは自分を捕縛するという密命を帯びてのものだろうとシェフィールドはすぐに理解した。
あの惨憺たる光景。血と肉が大地を彩る悪夢。この世の絶望を綯い交ぜにした惨状を目の当たりにして、自身の浅はかさを突き付けられた気分だった。
こんな結果を招いてまで、自分は何がしたかったのか――。
『ごめんね、シェフィ。出かけてばかりであなたに寂しい思いをさせて』
『いいえ、おかあさま。おかあさまはだいじなおしごとでお出かけしているのでしょう? おぶしでぃあん家のむすめとしてシェフィールドはまっていられるのです』
『あらあら。そんな言葉遣い誰から学んだのかしら』
『姫さまはかくあるべしってモエニアが。そうしていれば、はくばのおうじさまがむかえにきてくれるのです』
『もう。あの子ったら。シェフィ、お勉強はちゃんとしてる? 槍のお稽古はどうかしら?』
『やりは……あぅ、あう。だって、またモエニアにけがさせちゃったら……ごめんなさい』
『そう』
『で、でもがんばります。まもるためにはたたかわないといけないときもあるのです』
『……いいのよ。あなたはそのまま優しい子に育ってね。誰かを思いやれる心優しい子に』
『おかあさま?』
『願わくば私の代でこの国を――』
母が死んだのはシェフィールドが11のときだった。
初めて人の死を見た。争いを見た。
帝国の支配下にあった領地での反乱。その近くを自分と母の乗る馬車が通りかかったのだ。オブシディアン家当主として、母は反乱を治める必要があった。
普通なら主導者ならびに動員された反乱者を全員殺すことで鎮圧し、帝国の絶対的権威を見せつけるべきなのだろう。
だが、母はしなかった。槍を取らず、対話で反乱軍を止めようとした。しかし抑圧され続けてきた彼らが、今更対話で止まるはずもない。
母はたった一人で百以上の反乱軍の相手をすることとなった。
そこから先のことは全て後々に聞いた話だ。
母はそれでも誰一人として殺さなかった。ずっと対話を呼びかけ、そして――。
誰かもわからないほどぐちゃぐちゃにされて、殺された。
母が自分の命を懸けてまで傷つけようとしなかった彼らは、帝国によって蟻を踏み潰すように殲滅された。
誰一人として生き残らなかった。虐殺だった。
どちらが悪いのか。シェフィールドにはわからない。ただ、帝国の在り方をおかしいと思うのにそう時間はかからなかった。
支配の手を際限なく広げ、戦火を広げ、悲しみと怒りの連鎖を広げる。その結果が今回の反乱であり、母の死だ。
母は自分の死でそれ以上争いが広がるのを防ごうとした。しかしそうはならなかった。
なるはずがなかった。
帝国そのものは何も変わっていないのだから。
変えなくてはいけない。でも変える力は自分にはない。
だから帝国を出て、力を求めてクリファへ向かった。
その結果がこれ。
守りたかったはずの人々を、自身の浅慮さで殺めてしまった。
シェフィールドは必死に生存者を探した。それが自己を繋ぎとめる唯一の希望であり、光だった。
絶望の中で手が傷だらけになることも厭わず、喉が枯れてもひたすらに叫び、切望した。
そして。
『助け、て、誰か、助けて……! 助けてッ!』
光が自分を呼んでくれた。
リム・キュリオスが生きていた。見つかるはずのない、助かるはずのない命に出会えてシェフィールドは救われた。
救われて、呪われた。罪悪感という呪いに。
彼の大切な人を奪った張本人という業を背負ったのだ。
しかし、その罪を明かすことはできなかった。自身を悪夢から救い出してくれた光。それがもし、自分を拒絶したなら……。
そして、シェフィールドは告解の機会すら失うこととなる。あろうことか、ダンジョンの侵食にリムも巻き込んで。
最悪だったのは、自分は異形と成り果てながらも、生き残ったということ。
リムの大切な人を奪い、彼自身も巻き添えにした。『生きて』という彼に残した切望は、何の意味もない、ただ罪悪感を和らげるための断末魔に過ぎない。
それでも自死を選ぶことはシェフィールドにはできなかった。ここで死ねば全てが無為になると言い訳をして醜く死に抗った。
時に隠れ、時に逃げ、時に戦い、生に執着した。
時にダンジョンに取り込まれかけた探索者や、モンスターに襲われる人間を助けても、罪悪感を和らげるためだろうと罵る自分がいる。
そして五年。異形であるため、ダンジョンの外に出ることもできず経過した月日。
結局無為に生きているではないかと、いよいよ諦めかけたとき、彼がいた。
ダンジョンに、成長したリム・キュリオスが。
背も伸び、あどけない顔立ちは鳴りを潜め、追い立てられるような険しい顔つき。それでも一目見ただけで彼だとわかった。
彼の生存は、この五年で最大の喜びだった。しかし、仲間も作らず脇目も振らず、命を捨てるようにがむしゃらにモンスターと戦い続ける彼に疑問を抱かざるを得なかった。
本当に彼はただ探索者となっただけなのかと。
そして、ある日彼はダンジョンで気絶していた。悩んだ末に接触を試みた。モンスターとして問答無用で殺されるかもしれないと思ったが、顔は険しくなっていても彼は彼のまま優しい少年リムだった。
本当はすぐに正体を明かすつもりだった。自分がシェフィールドであると。
肉体も声も変われど、セフィラを介して説明すれば信じてもらえるだろうと思ったのだ。
しかし、セフィラにしばらく二人で暮らせと言われ欲が出てしまった。あともう少し罪に蓋をして彼と最後の思い出を作ろうと。
自分がシェフィールドであると明かせば、必然的に帝国のことも話さねばならない。そうなれば、彼の恨みを買うことは免れない。
わかっている。これが自己中心的な我儘に過ぎないことは。
しかし、五年。
人の温もりに久しかったシェフィールドにとって、もっとも会いたかった彼との日々は逃れられない甘い夢だったのだ。
そして、その選択は間違いであり、正解でもあった。
リムのダンジョン探索の目的を知ってしまったのだ。
そうして、もう何度目かわからない絶望をシェフィールドは味わった。
『私は死んでもなお彼を縛り続けている』
ならば生き返らないといけない。贖罪とともに、自分は彼が命を懸けるに値しない存在であると示さないといけない。
故に騙し続けた。偽りの自分に擬態し、彼の本心を、気持ちを聞いてもなお明かさず、ただエッセとして彼との関係を構築し続けた。
信頼関係を深く築いて、最後に壊すために。
そうして開闢祭終了後、セフィラとの謁見の際に全てを明かすつもりだったのだ。
だが、ダフクリンの登場があってしまった。
これは完全に予想外だったが、僥倖だった。彼の口から自分の正体が明かされたことで、よりリムにショックを与えられた。シェフィ―ルドという人間に対して失望させることができたのだ。
「これでもう大丈夫。大丈夫ですから。もう私は十二分にあなたにしてもらっています」
彼が自分を捜していたこと。
それは絶望をもたらしながら、シェフィールドを歓喜させていた。
嬉しかった。リムが自分をこんなにも想ってくれていたことを。五年振りのベッドで、幼い少女のように転げまわって喜んだ。
逞しく、かっこよくなった彼の顔を思い浮かべては一人恥じらっていた。
憧れだった白馬の王子様に助けられるお姫様の気分はもう十分味わえた。これ以上は過ぎた望みだ。
自分の末路は悪逆非道な皇女のものだと決まっているのである。
「さよなら、リム。ごめんね」
少女は彼との思い出を胸にしまって、ダンジョンをひた歩く。
あの男の居場所はもうわかっていた。
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