025:皇女


 誰かを憎むという感情が自分にあるなんて、今日の今日まで思いもしなかった。

 家族と村の人たちとの生活は、豊かではなくとも幸せだった。喧嘩はしても憎むことなんてなかった。

 その家族たちが帝国に殺されたときだって憎しみの炎に身を焦がされることはなかった。

 そしてシェフィがあいつに殺されたときも……。

 俺は仇討ちのために奴を捜そうとは一度も思わなかった。

 だけどこうして己が内から湧き出る負の感情の坩堝に呑まれて自覚する。

 誰かを憎む、そんな暇がなかった。ただ、それだけなのだと。


 奴の姿を認めたとき、思考するより早く俺の手は腰の剣を引き抜いていた。

 身体を動かす感覚すらなく、奴との距離が狭まる。


「リムッ!?」

「何してっ!」


 背後で俺を呼ぶ声が聞こえるけど、聞く耳を持ってはくれない。

 目前にまで迫りつつある奴を――ダフクリンを殺すまで正気に戻れない。


「馬鹿が! この人数に突っ込んで」

「邪魔だ!」


 割り込んできた男を、生成した剣でも棍棒でもない塊の【無明の刀身インタンジブル】で乱雑に横薙ぐ。


「ダフクリンッ!!」


 止まらず踏み込む。一足一刀。互いの間合いが完全に交差し、俺は走り抜ける勢いそのまま刃を振り下ろした。

 甲高い音が火花とともに散る。


「良ぃーい目をしてるじゃあねぇか」

「なんでお前がここに!」

「だがなんでそんな目を俺に向けやがる? なんで俺の名を知ってる?」


 片手で上げた剣の先でダフクリンは、心底怪訝な表情を見せていた。本当に理解できていない。俺が誰かを覚えていない。そのことが一層俺の感情を逆撫でする。

 怒りが思考を焼き焦がし、一歩踏み込む。


「ッ!?」


 だけど、いくら押し込もうとしても剣は動かない。


「ハッ」


 ダフクリンが剣を寝かせ、俺の体勢が崩れた瞬間、ダフクリンの姿が消えた。

 視界に留めようと奴の姿を追ったときにはもう、ダフクリンの蹴りが俺の腹部を蹴り上げているときだった。

 肺の空気を全て吐き出させるような重い一撃。歯を食いしばる。火花散る視界を無視して、裏拳を放つように剣を払う。

 しかし、ただ数歩下がりながら仰け反るだけでダフクリンに躱された。がら空きの俺の胴を貫こうとするダフクリンの長剣を、イメージ不足の【無明の刀身】を砕かれながら防ぎ、また剣を振るう。

 振るう振るう振るう。

 だけど、躱される。捌かれる。切っ先がダフクリンを掠めることすらない。


「く、そっ!」

「どうしたぁ? 息が上がってん、ぞッ!」

「ガッ!?」


 長剣だけに気を取られた意識の外から、俺の顔側面に拳が直撃する。

 一瞬途切れた意識が戻ったときにはもう刃が目前まで迫ってきていて、咄嗟に差し出した剣ごと、俺は紙屑のように吹き飛ばされた。


「なんだ。威勢よく飛び込んできた割には大したことねぇな。もういいや」


 だけどダフクリンはこっちにくるのではなく、腰の蒼い鞘から剣を引き抜いた。

 鈍い銀色の刀身が波打つ、奇妙な形をした剣だった。

 だけど鞘から解放されたそれから確かに熱を感じた。まるで炉の蓋を開けるように、火口を覗くように。

 滾る熱がその鈍い銀色の内側に眠っていた。

 そしてその切っ先を、振り上げるでもなく真っすぐ俺に向けてくる。


「【フラムヴェルジュ・ヴォルテクス】」


 その言葉とともに刀身が炎熱した。

 銀色の刀身が根本から鮮やかな真紅へと発色していく。それが切っ先へと到着した刹那、発火した。

 刀身を渦巻くように炎が放出され、それはうねりを上げる業火へと変容し切っ先より放たれる。

 俺を丸呑みするのは容易いほどの炎の塊。鈍色の洞窟を赤く染め上げる暴虐の劫火。

 起き上がれない。側頭部を殴られ身体の自由が効かなかった。

 躱せない――。


「リムッ!」


 炎と俺の間に割って入ったのはエッセだった。エッセの腕と髪の触手たちが眼前でまとまり、巨大な盾を瞬時に形成する。だけど。

 放たれた炎はその盾を溶かし、解けた触手を燃やし、俺ごとエッセを呑み込み、悲鳴を上げる暇もなく吹き飛ばす。


「う、ぐっ……エッ、セ……エッセ!」


 撒き散らされた炎がそこらに残る中、俺を庇うようにエッセが乗っかっている。手の触手は黒く焦げ、先がぐずぐずになっていた。


「だ、だいじょうぶ、だよ。リムは怪我ない?」

「ッ! ダフクリンッ!」


 身体を起こせば、ダフクリンは炎熱した剣を鞘に戻していた。二度も撃たれなかったことにホッとした自分がいて、余計に苛立つ。

 俺は何をやっているんだ。怒りに我を忘れて、エッセに庇われてこんな大怪我をさせて。惨憺たる有様だ。

 ダフクリンはこの結果に満足げな表情で、ゆっくりとこっちに近づいて来る。

 斧がその首を狙っていた。


「っと。忘れてた、お前もいたんだな、怪物使い」

「チッ」


 サリアの斧が空を切る。連撃は続かず、後続に控えていた他のダフクリンの仲間たちがサリアを取り囲んで、俺たちと分断させる。


「まぁそいつらと遊んでやってくれよな。大事な話があるんだ」

「邪魔だって!」

「へっ、あっちには行かせねぇよ嬢ちゃん」

「片が付くまで付き合ってもらうぜぇ」


 エッセを後ろ手に俺はダフクリンと対峙する。

 そこらのゴロツキとは違う、人を殺した経験のある異様な眼光。それをなんとも思っていない軽薄な笑み。

 憎い。憎い憎い憎い。いますぐ殺したいほどに。

 だけど、ああも簡単にあしらわれた。切っ先すら届かなかった。

 そしていま、俺たちは追い詰められている。

 この状況を招いたのは自分だ。怒りに我を忘れ、離脱するチャンスをふいにした。その埋め合わせはしなくちゃいけない。エッセは何が何でも守り切らなくちゃいけない。


「しかし、さすがだ。さっきのを耐えやがるなんてな……んでお前は、なんで俺の名前を知って」


 ハッとした表情になると足を止め、ダフクリンは心底驚いた表情を見せた。

 今頃になってようやく気付いたのか。


「お前、あの小僧……リムか! は、ハハッ! 生きてやがったのかッ!」

「何が、おかしいッ!」


 腹と頭を抱えて笑うダフクリンに飛び掛かりたい衝動を食いしばって堪える。


「いやなに、五年前に死んだと思ってた奴がそいつを拾ってるとは思わなくてよ。数奇な運命じゃねぇか。なぁ?」

「何がなぁだ……!」

「おめぇに言ってねぇよ」


 俺じゃない。後ろにいるのはエッセだけ。なんだ?

 変な感じがする。この違和感はなんだ?

 いけない。振り向いたら何かが変わる、いや終わる気がした。でも。

 エッセは力なく、ただ俯いていた。まるで裁きを言い渡される罪人のように。


「待てよ。お前が拾ったってことは噂の死人をダンジョンで捜してる馬鹿ってのはお前のことか。つまり……おいおい、ハハッ、マジかよお前言ってなかったのか!?」

「…………」


 ただ俯いて、下唇を噛んで、炭化した触手たちで身を守るように身体に巻き付ける――エッセがしたのはそれだけだった。


「ご愁傷さまだな、リム。お前の捜し人はずっと傍にいたってわけだ」

「…………………………は?」


 意味がわからなかった。エッセが、誰だって。


「シェフィールド。お前がのこのこダンジョンについてきたせいで死んだ女だよ」

「ッ!」

「違う!」


 叫んだのはエッセだった。なんだ、やっぱり違うんじゃ。


「私が死んだのは、リムのせいじゃない」

「なん……で」


 否定してくれない。本当にエッセが、シェフィ?

 数多の光景が、エッセとの短いけど傍にいた時間が連続して想起する。

 光に満ちた手を差し伸べて、闇から俺を掬い上げてくれた人。

 常に優しく微笑みかけてくれて、だけどそこに後悔と罪悪の影をちらつかせていた。

 その顔を、姿を忘れたことは一度だってない。だから断言できる。


「エッセとシェフィは全然似てない。顔だって、声だって」

「そういう儀式をしたんだよ。己の肉体を造り変える祖国由来の特別な、な。そのために俺たちはわざわざこんな辺境の敵国までやってきたんだ。なのにそいつが汚らしいガキを拾った挙句、儀式を中止するだの、逃げ出すだのするから俺はここに残る羽目になっちまった。俺の迷惑も考えてくれよなぁシェフィールド!」

「儀式? 祖国? 敵国?」

「ん。ああ。そうかそうか。そりゃそうだ。言えるわけねぇよなぁ。だから正体も明かせなかったのか。教会経由でバレるかもしれねぇからな」


 心底愉悦に顔を歪める。ここまで人を嘲ることができるのかという、悪魔じみた笑み。


「やめ、て」


 後ろで聞こえたエッセのか細い声が届いたどうかはわからない。でも、たとえ聞こえていたとしてもダフクリンは言うだろう。

 そして、俺は耳を塞ぐことも目を逸らすこともできなかった。


「シェフィールド・オブシディアン・マルクト。お前の村を焼き払った【マルクト帝国】の皇女様。それがお前の後ろにいる女の正体だ」

「てい、こくの、おうじょ? エッセ、が?」


 後ろを振り向けない。振り向いてしまえば、エッセの顔を見てしまえば、それが事実に確定してしまいそうで怖くて仕方がなかった。

 信じられない。あり得ない。そんなこと、絶対に。

 だけど。

 でも。

 思い当たる節は幾らでもあった。

 ダンジョンで生まれたはずのモンスターでありながら、人語を介し、意思疎通が可能で、食器の扱いに加えその立ち振る舞いや所作は、高貴な身分の立場であると思わせた。

 セフィラ様との話も、敵国である帝国の皇女ともなれば慎重になるのも頷けた。

 何より、何故エッセは俺を選んだのか。

 地上に連れていくのを俺に頼んだのか。


「お前は自分の村を焼き払った張本人をずっと捜してたってわけだ。哀れすぎて泣けるねぇ。命の恩人だと慕っていた相手が、よもやの仇敵だったわけだからなあ」

「…………」


 何も言い返せない。状況が全て真実なのだと俺に突きつけていたから。

 それでも、エッセが否定してくれれば。俺はたとえそれが逃げることだとしても――。


「……ッ」


 俯くのをやめたそこに、いつものエッセはおらず。

 罪過を受け入れて安寧を諦めた、咎人のシェフィがいた。

 俺を見る目は、ただただ、贖罪と後悔に塗れていた。違うのに。そんな目を見たかったわけじゃなかったのに。

 もしも。

 あの日俺が助からなかったら、シェフィは苦しまずに済んだのだろうか。

 剣が俺の手から滑り落ちた。


「さて、と。そろそろ良いな。リム。知りたいこと全部知れてもう満足だろ」

「ッ! リム!」

「じゃあな」


 俺の背後を見て、焦燥に駆られるエッセの顔が眼前に広がる。

 背中に感じる熱。引き寄せられる感覚。そして、空に放り出される浮遊感。

 それだけ感じて、意識は完全に宵闇へと沈んだ。

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