xxx:泡沫の夢5


 そしてあの日がやってきた。

 二人の目的地であるクリファに到着した日――シェフィが死んだ日だ。


 クリファは、【巨人の森】とも呼ばれる、地上に陽の光が届かない暗く広大な森を越えた先にあった。

 ただ一本の街道のみが森の真ん中を突き抜けているだけで他に道はなく、クリファも周囲に多少の土地はあれど複雑な海流を持つ海に囲まれているため、実質陸の孤島だった。

 森に入る前から人の数はすでに多かった。栄光を掴むべく探索者となるため、あるいはもっとも栄えている都市で商機を掴むため、国交を密にするための特使なんてのもいたのかもしれない。

 多種多様な人たちがクリファへと向かっていた。

 目的は種々あれど、そこにダンジョンが絡むのはまず間違いないだろう。

 クリファは世界最大のダンジョン――幹を断たれた世界樹のある都市だから。


 森の街道からでも容易に見えた世界樹の存在にさすがの俺も昂揚していたと思う。大きいのはすごい。単純だった。

 検問での簡単な質問の際に、俺はシェフィの弟ということにされた。無くなった村の生き残りと説明するとなると面倒事になるから事前の打ち合わせでそうなった。

 シェフィは反対していたけど、俺は了承した。もし、これで離れ離れにされても困るから。

 それから検問にいたシスターに手で触れられた。ダンジョンのパスの有無の確認とのこと。

 ダンジョンとのパスは一度でも入れば必ず刻まれるらしく、パスを読めるシスターによってどの国のダンジョンのパスかもわかるらしい。それによって敵国のスパイの侵入を未然に防ぐのだそうだ。

 当然俺はもちろん、シェフィもダフクリンもダンジョン探索の経験はなく、そのあとはスムーズに街に入ることができた。


 そして、クリファで何をするでもなく。夜はやってきた。


『リム。私たちはダンジョンに行くから、この宿で待っていてね。早朝までには必ず戻るから』

『シェフィも、行くの?』

『ええ。私が行かないと意味がないの。ダフクリンは私の付き添いだから』

『僕も――』


 行きたいと言いかけた俺の口にシェフィはそっと人差し指を当てて制止した。


『ダメ。ダンジョンは本当に危険な場所なの。これまでの旅と違って君を守れる保証がない』

『危ないのはシェフィだって同じじゃないか』


 このときだけは素直にシェフィの言うことを聞けなかった。シェフィの言葉の端々に何か覚悟のようなものを感じていたのだと思う。

 それが、シェフィの声の裏に隠れる誰かに助けを求める理由の一つなんじゃないかと、俺は思っていたのかもしれない。


『ずっと傍にいるってシェフィは言った。でも、これは僕があの日のことが怖いからじゃない。いまシェフィと離れたらもうずっと会えない気がして、それが怖いんだ……!』


 まとまらない気持ちを必死に言葉にしていたと思う。

 それが伝わってくれたのかはわからない。けれど、シェフィは俺を抱き締めてくれた。最初に出会った日のように。

 でも、シェフィの全部を教えてはくれなかった――。


『リム。私たちが帰ってきたら君も一緒に……』


 ――最後まで言ってくれなかった。


『ううん。全部話すから。リムが知りたいこと全部教えるから、ここで待っていて』

『シェフィ……』

『ダフクリン、用意はできましたか?』

『とっくに』


 シェフィは僕を離して、それ以上は一目も合わせることなく部屋を出ていった。

 追いかけるべきか、待つべきか。わからない俺の背中を押したのは部屋を出る直前のダフクリンだった。


『もし、ついてきたいなら来い。ただし俺たちに気づかれないようにこっそりな』

『!』


 それが悪魔の囁きだと愚かな子供の俺には気づくことができなかった。



 俺は必死にシェフィに気づかれないように二人の後を追った。街を抜けて、坂道を上り、【クリファ教会】の本部である【ガーデン】まで。

 景色を見る余裕はなかった。幸い、二人も人目を避けていたためか、小さな俺が夜に出歩いても咎められることはなかった。

 そして、ダンジョンに入る二人の後に続いて俺もダンジョンに入った。夜ということもあってか、ダンジョンを行き来する人が少なく、俺は気づかれずにダンジョンに入ることができた。

 運が良かった。いや、悪かったのだろう。


 俺はひたすらシェフィたちを追った。強行軍以上の辛さがこの短時間で全身に襲い掛かった。当時の俺が知る由もないダンジョンの侵食負荷だ。

 それがなくてもモンスターに襲われれば、剣の一本もろくに持てない子供はひとたまりもない。

 しかし、強運か悪運か、モンスターにも他の探索者にも見つからなかった。

 先行する二人もだ。『拍子抜けだ』とか、そんな言葉が聞こえた気がする。

 当時ならともかくいまならその理由がわかる。おそらくこの日、階層主がすでに倒されていたのだろう。

 だからモンスターがいなかった。

 探索者がいないのは第一階層を漁り終えたからだろう。

 しかし侵食負荷だけはたとえ階層が活動停止していても起きる。その辛さで立ち眩みし二人から目を離した。

 致命的にやらかしだ。二人を見失ってしまったのだ。


 ほとんど泣いていたと思う。モンスターに見つかれば絶対に死は免れなく、そのことをシェフィたちに知られることもないのだから。

 ただひたすらダンジョンを走って走って、通路から出た先が巨大な湖のある外と見紛うほどの広大な空間だった。

 そして湖以上に目を引くものがあった。

 窓とドアの無い無機質に穴が開いた無数の建物群だ。

 それらは頭上から降り注ぐ滝を一身に浴びて湖を形成しており、まるで水上に浮かんでいるようだった。


『――――――――』


 聞き取れない声の先。湖の畔にシェフィはいた。

 妙な刃をした剣をシェフィは持ち、何かを呟きながらそれを地面に突き刺していた。

 その直後、刺された箇所の地面が仄かに翡翠色に輝き、まるで血管が浮かび上がるようにシェフィとその輝きが繋がる。

 それは一瞬のことだったけど、シェフィは息を吐いて一つ肩の荷が下りたような顔をしていた。

 そして、近づく俺の存在にシェフィは気づいた。信じられないものを見る目で。


『どうして、リム……』

『おいおい、マジか。本当に来れたのかよ』

『シェフィ、早く帰ろう』


 俺もシェフィも違和感に気づけなかった。


『ッ! ダフクリン、“儀式”は中止です! 先にリムを地上へ』

『はぁ、いいや、続行だ』


 それはシェフィがダフクリンに背を向けて俺に駆け寄ろうとした瞬間だった。

 ズブリ、と。

 シェフィの小さなお腹から、剣が生えた。

 何が起こったのかわからなかった。頭がぐちゃぐちゃになって、想起したのは村の襲撃の日だった。無残に死に絶える村人の姿がこの目に焼き付いた日のことだった。


『後悔するって言ったよな、シェフィ』


 シェフィの口から血の塊が溢れ出て、彼女の服を濡らした。剣が乱雑に引き抜かれ、シェフィはダンジョンの冷たい地面に崩れ落ちる。それをダフクリンは興味なさげに跨いできた。


『全く。大人しくモンスターに喰われときゃわざわざ俺が手を下さずに済んだのによ』

『おま、お前、なんで、シェフィを……?』

『あ? ああ、あれでいいんだよ。そのほうが早いしな。まぁ、お前には関係ないことだ』


 剣を振り上げるダフクリンに、俺は怒ることも嘆くこともできず、ただ恐怖することしかできなかった。逃げられなかった。立ち向かえなかった。

 シェフィを助けることができなかった。

 それなのに。


『ああああああああッ!』

『ぅお! お前、まだ動けんのか!?』


 血に塗れるシェフィが地面に突き刺していた剣を手に、ダフクリンを俺から引き離して助けてくれたのだ。

 両肩で息をして、呼吸は荒くかひゅ、かひゅ、とまともじゃない。死にかけている。子供の俺でもわかる。


『ったく。どうせ死ぬんだから大人しくしといたほうが楽だぜ。辛いだけだ』

『あな、たが……リムを、はぁ、襲う以上、ひゅーはぁー、致し方ない、でしょう』

『そんなガキ守ってどうなる。どうせ』

『これが! 私の!』


 シェフィはダフクリンの言葉を遮り叫んだ。


『私が為すべき責務であり、ここまで来た意味だからです!』

『そうかい。じゃあ、二人まとめて止めを刺して――なんだぁ!?』


 何の運命の悪戯か。それは突然起きた。

 ダンジョン全体が脈動するように激しく揺れ始めたのだ。天蓋都市から降り注ぐ水がこのフロア全体に塵と一緒に撒き散らされる。

 一番反応が早かったのはシェフィだった。俺の手を引き、通路へと駆け出した。


『くそが、待っ、うぉっ!?』


 ダフクリンもすぐに追いかけてきたが、地面がいきなり隆起した。それだけじゃない。まるでダンジョンが狂ったように色々なところの地面や壁、天井の岩が隆起陥没を繰り返し、新たな道を形成するようにダンジョン構造を作り替えていたのだ。

 鉱床樹海の特性をこのときの俺は知らなかったけど、そのおかげでダフクリンを撒くことができた。

 だけど事態は何も解決しちゃいない。


『かふっ』

『シェフィ!』


 吐血して膝をついたシェフィを抱き支える。俺の身体を濡らしていくシェフィの血。もう致命傷なのは明らかだった。地上まで走れるはずもない。


『ごめ、んなさい、私のせいで、きみを、巻き込んで、しまって……』

『違うっ! 僕が、シェフィについていったから!』

『いいえ……最初、から私が、私の、せいで……』


 まるで何かを言い残すように言葉を紡ごうとするシェフィ。

 だけど最期のときすらこの無慈悲な地下迷宮は許してくれない。

 絶望の福音を奏でるが如く、ダンジョンの根より醜悪なゴブリンが零れ落ちた。


『く、そっ』


 動けるのはもう俺だけ。やらないと。やらないと。シェフィを守らないと。今度こそは。

 だけど、シェフィは俺に剣を取らせず、歯が砕けるほど大きく噛み鳴らして、迫りくるゴブリンの頭上へと飛翔した。

 俺もゴブリンも時間が止まって、血を撒き散らしながら舞うシェフィを見上げる。

 静止する時間を動かしたのは、シェフィの神速の突き。

 剣の切っ先がゴブリンの頭を貫き、絶命させた。

 だけど、シェフィが出せる力はこれが最後だった。受け身も取れず地面に墜ちたシェフィはぴくりとも動かなくなった。


『シェフィ……!』


 抱き起こす。重い。シェフィの身体に力はもう残っていない。


『り、む……きみだけ、でも、にげ、て』

『いやだ……嫌だ!』


 シェフィを背負って俺は歩いた。力の入っていない人がこんなにも重いんだと思い知らされた。一歩一歩が亀の歩み。少しでも気を抜けば膝から崩れ落ちそうだった。

 シェフィの握る剣がギギギと地面を引っ掻く音が、朦朧になる俺の意識を何とか繋ぎ止めてくれる。


『りむ、だめだよぉ……わたしはもう、いいから』

『そんなこと言わないでシェフィ! 諦めちゃダメだ! 誰か、誰かいるかもしれないでしょ』

『いい、の。わたしは、あなたにまもって、もらう価値なんて、ない……から』

『そんなこと言うなッ! なんで諦めるんだよ! 諦めてるんだよ! ずっと!』


 突然、歩いている最中、シェフィが誰かに引っ張られた。

 いいや、引っ張られたんじゃない。よろめいたときに地面と触れたシェフィの足が、ダンジョンと同化したのだ。

 俺は立っていられずその場に尻餅をつく。そのままシェフィを抱き支えて引っ張ろうとするけど、脚は動かずシェフィは痛みに喘いだ。


『なん、だよっ、何なんだよこれっ! くそ、どんどん広がってっ』

『リム、おねがい……』


 腹を貫かれ、脚が接合面から岩へと変わっていく激痛。

 そんな痛みを負ってもなお、シェフィは笑った。笑ったんだ。


『君は生きて、ね』


 俺は返事なんてできなくて、ただエッセを抱き締めることでしか俺の内側で渦巻く感情を、衝動を、情動を彼女に伝えることができなかった。

 こんなはずじゃなかった。こんな結末望んじゃいなかった。

 ただ、笑顔の裏に悲嘆に抱えるシェフィを、俺と数歳しか違わないのに贖罪を背負う彼女を助けたかった。

 俺を闇から掬い上げてくれた光を、守りたかったんだ。


『ッ!』


 激痛が、シェフィと触れている箇所から全身へと広がった。身体の内側をまさぐられているような不快感。これがシェフィがいま感じている苦しみ。

 でも辛くない。少しでもシェフィと同じものを背負えるならそれでいい。

 このままシェフィと一緒に死んでも構わない。


『僕は君を助けたくて生きたんだ。だから、君と同じ場所に行く』

『…………』


 石となっていくシェフィにその言葉が伝わったかどうかは知る由もない。

 それでも、彼女と同じ場所に行けるなら、と心はとても安らかだった。

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