第51話
ハンバーグを捏ねるように、私の一部が混ざっていく。食品との違いは、その材料が私であり、骨と神経系が含まれていることだけだった。正常な身体の復元。病気にならない体。燃え尽きない限り尽きないこの再現性は、私が人間ではないことを指し示している。
「花鍬!」
窓から、先生が顔を覗かせる。彼は私に対する心配を、ほんの少しだけ見せていた。その隣からは、藤馬君が、識君に首根っこを掴まれつつも、身を乗り出していた。
「藤馬君は危ないから来ちゃダメだよ」
私はそう笑って、地面を蹴った。血を吸ったスニーカーが重い。耳を澄ませる。足の方向を定める。複数の女性が、こちらに向かって走っていた。うち一人はグループの後ろで何度も振り返って、地面を蹴っていた。黒い砂が地面に広がっていくのが見えた。それは蟻のようにも見えた。近づくにつれ、それが小さな黒い蜘蛛だということに気づく。蜘蛛という生き物は、本来こうやって群れるものではない。明らかにこれは、普通の蜘蛛ではない。どちらかと言えば、怪異、私達の知るところの蟲だ。怪異だというのに、聞こえる悲鳴から推測するに、これらが見えているのは、怪異に関係したほんの一部というわけではないようだった。
蜘蛛の波を走る。密度の高い方向へと急いだ。地面に、壁に、殺虫剤を吹き付ける人々が、少し煩わしかった。それに何の意味もないことを知っているのは、怪異を知っている人々だけだろう。
「花鍬ァ!」
私を呼ぶ声は、今朝聞いたばかりの、新鮮な悪態を含む声。礼を欠いた女の顔を見る。カセットガスに着火用の筒を着けたバーナーを持って、阿良ヶ衣が走る。殺されるのではないかと、反射的に足が動いた。
「待てコラ逃げんな!」
手元で炎を吹き出しながら、長身の女が追いかけてくるのだ。逃げないわけがない。ただ、何度か振り返っているうちに、その炎が地面の蟲を払うのみであると気づいた。彼女は、一度も私に凶器を向けていない。足が止まった。阿良ヶ衣の後ろには、狗榧と皐月も遅れて迫っていた。群がる蜘蛛を払いながら、私は上がった息を整える。
「ごめん、バーナー持って走ってくる阿良ヶ衣さんが怖くて逃げた。何? 私、急いでるの」
増える鼓動が、四人への疎外感を取り除いてくれた。真っ直ぐと三人の顔を見た。
「何? じゃないのよ! アンタその血ぃ何!? 怪我してんなら大人しく病院にいなさいよ!」
「大丈夫、怪我はしてない」
「じゃあ何、誰か刺したの?」
「ううん、病院の……四、五階くらいから飛び降りた」
顔から落ちちゃって。そう笑って、私はブラウスの首元を撫でる。傷一つ無い私の表面に、阿良ヶ衣は顔をヒクつかせていた。
「私を呼び止めた理由がそれだけなら、もう行っていい? 本当に急いでるの」
私がそう言うと、三人は顔を見合わせた。「おい」と言って、終始、身を屈めていた皐月が背筋を伸ばした。彼の背後から、ドサッと音がして、同時に鈍い呻き声が耳に入る。目線を地面に落とすと、そこには魘される海棠が落ちていた。
「菖蒲綴を探しているんだろ? なら、蟲の波に逆らうより、こいつを使った方が早い」
足元の海棠を蹴り付けて、彼は言った。皐月は海棠を何度も蹴り、起床を促す。その間、淡々と言葉を落とした。
「こいつは怪異の特定と探知に長けている。菖蒲綴が出す蟲は既に溢れて、周囲の状況はより混乱しているだろう。彼女の近くに行けば行くほど、蟲の出所を探すのは難しくなるはずだ。こいつなら最短距離で、視界が無くても存在を追える」
海棠が着けていたネクタイを手に取って、皐月は彼に目隠しをする。それを合図に、海棠がビクンと上半身を震わせた。
「ちょっと! 誰だよ目隠ししたの、逃げらんないじゃん!」
少し枯れた喉で、目覚めた海棠はそう叫んだ。両手で何もない身体中をまさぐり、歯を鳴らす。
「海棠君、今目隠し外したら死ぬからね。冗談抜きで」
狗榧の言葉に、「どういうこと」と震える海棠は、どうやら虫が大の苦手であるようだった。私が今朝、狗榧の管狐を馬陸と言った時、ずっと息を潜めて、逃げるように下宿を出たのも、そのせいだったのかもしれない。
「ごめんなさい、海棠君。貴方に綴を探して欲しいの。私、あの子を止めないといけなくて」
震える彼の耳元で囁く。「お願い」と付けると、海棠は声にならない唸り声を上げる。数秒後、諦めたように四肢を弛緩させると、猫背のまま立ち上がった。
「菖蒲さんを探すの?」
「うん」
「彼女が今回の元凶?」
彼の問いに、私は一瞬、言葉を飲んで、「うん」と溢した。
「じゃあ、彼女を止めるって、何? 話し合いでもするの?」
「一応、そのつもり」
私の返答に、海棠は眉間へ皺を寄せた。何か納得出来ないことでもあるのか。彼は歯を軋ませた後、怒気の籠った口で言った。
「希望的観測で物事を考えるべきじゃない。それに、実際の元凶は君だろ? 君が彼女を産んだんだろ? なら、君は責任を持って、最悪の場合は彼女を殺すくらいの意気込みを表さないと、駄目だよ」
目隠しの向こう側で、彼はしっかりと私を睨んでいた。蟲を払う手が止まる。口元にまで蜘蛛がやって来た。私は、口を閉じたまま、彼の言葉の続きを享受するしかなかった。
「僕は君達の関係をよく知っているわけじゃない。ただ、感覚的に、君が母親で彼女が娘、あるいはその逆だろうな、というのはわかっていたよ。特定した上で探知が出来るということは、それだけ怪異の違いに敏感だということだ。だから僕は君が、今朝よりまた少し変化していることにも、気付いている」
丁寧に、彼は言葉を吐いた。その口は、とても淡白で、感情が無い。
「嘘とか、隠し事とか。君に悪意は無いのだろう。けど、何故自分が他人に嫌われていたか、阿良ヶ衣さんのような人が抱いていたのが、嫉妬心だけじゃないことくらいは、理解してから、頼み事をしてくれないか。君は誠実さに欠けている。それが今の僕にとって、君の頼みを断る理由にはならなかったとしても、だ」
そう言って、彼は私の手を取った。言葉に詰まる私を、見えない視界のまま、引きずっていく。私達が歩き出したことを確認して、阿良ヶ衣達は再び蟲を焼き殺しながら、遠くへ走っていった。
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