第52話

「君はきっと、緊急事態なのに、何故今、自分を責めるのか、と思っているだろう」


 冷淡な声で、海棠は零した。大量で多様性を増していく蟲の間を歩きながら、彼はそう言った。私がしっかりと着いて来ていることは、その手を引いてわかっているようだった。その上で、彼は私に聞かせる言葉を選んでいる。


「今だからこそ、というか、もう話す機会も無いと思うから、言っておいた方がいいかなって」

「機会が無いって、それは、今後もう、顔を合わせたくないって事?」

「違うよ。最悪の事態を考えろって言ったでしょ? 最悪の場合、君は菖蒲綴と心中するだろうからさ」


 心中。言葉を繰り返す。つまり、私が綴と一緒に死ぬかもしれない、ということ。それを私が選ぶかもしれないと、彼はそう言っているのだ。まるで見透かしたような態度が、何だか腹立たしかった。深いことはわからないが、と前に置いておきながら、ズカズカ踏み込んで来る浅ましさが、不快だった。


「僕は未来が見えるわけではないし、これは予測でも推測でもないんだけどさ」


 付け足した言葉に、悪意は無い。そもそも彼は善意で私を案内して、私に語りかけている。彼が話をしてくれなければ、蟲が皮膚を這う不快感で、パニックを起こしてい他かもしれない。そう考えれば、私は彼の言葉に耳を傾けるしか、正気を保つ方法が無かった。


「それに僕は、幸せな夢に浸かって周りに迷惑かけている人間を、そのまま死なせるほど、眠らせたまま溺死させるほど、優しくはないんだ」


 少しずつ弱くなっていく語尾が、彼の精神の磨耗を表していた。それもその筈で、周囲は多種多様の蟲で埋め尽くされ、ギシギシギチギチゴリゴリメチメチと、煩雑な生物としての音が私達の脳を揺らしていた。海棠だって、自分が大嫌いな虫に囲まれていることくらいは、理解しているだろう。そこで意図的に精神を保持するために、彼は必死なのだ。ふらつく足でも、壁に手をつけないのは、触覚による摩耗を減らすためだった。けれど、足裏で潰す蟲の数は次第に増えて、私達の靴は血塗れになっていた。ヘモグロビンなどという脊椎動物の特徴を、何故だかこの蟲達は有している。それは、この蟲達が、人の姿をした菖蒲綴に由来していることを示しているのかもしれない。


「……だからさ、君も、反省の一つくらい、してみたらどうだい。どうしてこんなことになったのかとか、さ。少なくとも僕は、その答えが少しだけでも見えれば、君を蔑む精神は、軽くなるんだ」


 僕のため、だけれど。グロテスクな感情を、海棠は隠すこともなく、そう垂れ流した。それに呼応するように、私の脳は反射的に思案する。

 菖蒲綴とは、私の産んでしまった夢蟲で、一番新しい花鍬樹で、多分、祖母も混じっていて。もう、人ではなくて。いや、最初から私も彼女も人間ではない、浅ましい蟲でしかない。だから、本当は、冬馬のように諦めて徐々に人間になるべきだった。けれど私達は、待ち続けてしまった。その結果が、祖母までの私だ。不死性にしがみついた末路だ。否、静かにその不死性を貪るまでは良かった。そこで、母が、個としての自分を欲してしまったのが、いけなかった。そのくせ、結局は花鍬樹という機構の一つとして、本能にも逆らえず、地楡を生み出して、そして、歯車が狂った。私達を生み出した人は、既に死んでいる。先生達の話を聞く限り、大元となって神を生もうとした夜咲という一族だって、既に殆ど機能していないのだろう。それなのに、私達は、本能のままに神を産もうとしていた。

 頭が割れるようだった。一つ、気づいてしまったことがあったのだ。確かに私――母は本能を優先した。けれど、それは、私達が何処までも怪異で居続けてしまっていたからだ。では、冬馬はどうだ。彼はもう、殆ど、人間だったはずだ。しっかりした大人の人だというなら、理性があったはずだ。精神科医という立場に立てる程度には、人間的で、成熟していたはずだ。けれど彼は、母を選んだ。最初の女性を捨てて、母と自分の醜態に目を瞑って、挙句、十四歳の少女に自分の子供を産ませた。


「……私が、母が、中途半端だったのが、最初の原因。でも、本当に悪いのは、きっと、冬馬だったわ。あの人が、女を取っ替え引っ替え、私を捨てたから、だから、こうなったんだわ。母と番った時、あの時、あのまま、結ばれていれば、私は生まれなくて、綴を産むことだって無くて」


 そうだ、全部、冬馬が悪い。責任を求めるべきは、彼だ。


「冬馬を呼ばないと」


 私は振り返って、病院に戻ろうと、足を出した。だが、それを阻むように、海棠が私の腕を握っていた。骨が折れるのではないかというほどに、強く、握っていた。


「君が汚らしい、繭すら作れないような、毛虫以下の何かだっていうのは、よくわかった」


 そう言って、彼は私を放り投げた。地面に、頬と腕が擦れる。砂と皮膚が混ざる。青い空だけが視界に入って、何が起きたかわからなかった。


「娘と共に、地面を這うしかないまま、朽ちてしまえ」


 海棠は目隠しをしたまま、身を翻した。想定されていたように、軽やかに、彼は爪先で走る。「待って」と声を出そうとした時、背後の気配に気づく。


「綴?」


 大学構内の中庭、顔の穴から次々と蟲を垂れ流す綴が、座り込んでいた。黒い蜘蛛は涙のように、彼女の目から流れ出していた。


「綴、綴。大丈夫、私が来たから」


 泣かないで、止めて。子供をあやすのと同じ容量で、私は彼女の頭を撫でていた。露出の多い服の、その皮膚からは、蝶が湧く。爪先からは紙魚が、口からは百足が、耳からは芋虫が、ドロドロの体液に混じりながら、流れ出ていく。これの正体を、私は理解出来ない。けれど、これもまた、夢蟲というものの、形なのだろう。綴は不完全だ。何か一つの存在になれず、蛹の中身だけが増えていった、多分、そういうもの。私はそんな有機物と生物の間のものを、生物に整える方法を知らない。海棠の言葉が過ぎった。最悪の場合は、私が――――


 そう、考えついた時、鈍いモーターの音が聞こえた。街の至る所で聞いたことのあるそれは、車のエンジン音。それが、一気に近づく。


 それは、傷付いた車が一つ、蟲を潰してこちらに向かっていると気付いた時。

 それは、その助手席に青冷めた地楡が乗っているとわかった時。

 それは、運転席にいる溝隠君が、酷く冷徹で、躊躇の一つも無い、虚無に徹した顔をしていると、気づいた瞬間。


「――――そっか、そういうことだったのね」


 自分の肉がゴムに混ぜられた後に、やっと、私は理解した。綴を抱きしめる。変温動物の体温は、春の風に包まれて、冷たかった。

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