第32話
白い女性――――七竈ハラヤの背を追って、マンションを出た。暗闇を歩く彼女は、白く光り輝いているようにも見えた。ただ、その見た目相応に、彼女の態度は冷たく、配慮に富んではいなかった。たとえ私が顔面を血で濡らしていても、それを助けようという気はないように。
「ファミレス」
「は?」
「駅前のファミレスに行くぞ。そこで話をする」
足を止めない七竈は、私を見向きもせずに、そう言い放った。どうにもこうにも、彼女の感覚がわからなかった。エレベーターの前では、私を助けてくれたというのに、今はこうして、私と最低限のコミュニケーションしか取ろうとしない。彼女に問いただしたいことは多かった。ただ、その前に、掴まれた足が酷く冷えて痛み、彼女のスムーズな足取りに追いつくことが、最大の難関だった。
「あの、すみません」
七竈との間が、大通りの幅と同程度になった頃、私はやっとのことで声を上げた。乾いた血液が鼻を詰まらせて、息が整わなかった。
「顔、洗わせてください。コンビニでも良いので。エレベーターで、鏡にぶつけてしまって。今、顔面血だらけで」
私がそう言うと、七竈は眉間に皺を寄せて、半分だけこちらを見た。そうして歩いた道を僅かに戻り、私に迫った。
「歩くのが遅いなら速度を下げろと言え。顔を洗いたいなら早く言え。言語化しろ。察してほしいと、優しくされて当たり前の顔をしている女が、大嫌いなんだ。僕は」
それは明確な敵意だった。だが、その中にほんの少しの優しさがあった。或いは、母性と呼ぶものが、彼女の中には存在しているようだった。溜息を交えつつも、彼女は側にあった児童公園へ、私の手を引いた。
「コンビニなんて入れるわけないだろ。警察呼ばれたらどうするんだ。少しは考えろ」
冷たい指先が、私から離れて、小さな蛇口に向かった。辺りは静かで、水の流れる音だけが聞こえた。私が状況の処理を終えられず、少し呆けていると、七竈が私の背を叩いた。早くしろと声をかけられて、手を水で濡らす。暗がりで視界は良くないが、粘液が水分を含んで、皮膚を滑っていくことはわかった。顔を撫でていく。睫毛に水滴がついて、瞬いていると、七竈が白いハンカチを差し出した。「すみません」と小さく呟きつつ、それで水分を拭き取った。鼻を拭うと、僅かに残っていた血の塊が、ハンカチに広がった。
「返せ」
その赤い染みを見た途端、彼女はそう言って私からハンカチを取り上げた。怒っているのだろうかと、顔を見上げるが、眉間に皺が寄っている以外、どんな感情で、何を考えているのか、上手く理解することは出来なかった。
「紙でも詰めるか」
「いえ、もう止まっているので」
私が立ち上がって見せると、七竈は「そうか」とだけ言って、再び私に背を向けた。会話をしたがっているようには見えなかった。話はファミレスでとは言っていたが、それにしても、本当に協力してくれるのかと、疑いだけが残った。歩いている彼女に声をかけようとも思えなかった。近くにいる時間が増えれば増える程、七竈ハラヤという人間特有の、威圧感のようなものが、口を重くさせる。思えば、あのフナムシの女が何であったか、どうやって燃やしたのか、何もわからないままだった。韮井先生や識君も不思議な何かを持っていたが、彼女の場合はおよそ、量的にも質的にも全く異なっている。彼女はより多く、より濃い。現実が不明瞭になる程に、七竈ハラヤは幻想的で、怪奇な女だった。
迷いのない足取りを追いかけて、駅前まで辿り着く。水と血で詰まっていた鼻は機能を取り戻し、アルコールと人々の匂いに惑う。桑実達と歩いた時を思い起こす。見える風景はその時と変わりなかった。人の中にぽつと蟲が紛れ込んでいる。その中で、圧倒的に存在感を放つのが、私を先導する七竈だった。
そういえば、あの人魚はなんだったのだろう。
ふと、そんな記憶が蘇る。彼女の体に纏わりつく、美しい黄金色の人魚。魚体と人体の狭間は、赤い糸で乱雑に縫い込まれていた。あれだけが、揺らぐ視界の中で、確固として存在していたのを、強く覚えていた。
「七竈さん」
無意識に、私は彼女の名前を呼んでいた。振り返り際、七竈は小さく口を開いていた。
「あの、すみません。昨日、ここで貴女とすれ違ったのを、思い出して。覚えていませんか。私を見て…………」
そう、あの時、彼女は私に『蟲?』と疑問符を浮かべていた。私の周りを見て言ったのではない。私を見て。
「私のこと、蟲って、言いましたよね?」
私を蟲と、そう言ったのだ。彼女は確かに、嫌悪の目を、私に向けていた。今の彼女と同じ、不機嫌そうな目だったのを、確かに覚えている。
「だからどうした。蟲に蟲と言って何が悪い」
不思議なことなど何も無いと言うように、七竈は再び歩き出した。彼女の数十メートル先には、既にファミレスの看板が見えていた。僅かだが、七竈の歩速が遅れているのに気づく。私に気を遣っているというようには見えなかった。どちらかと言えば、何か、足元に重いものを乗せられているような、そんな足取りに見えた。
――――ちゃぷん。
噴水も、公衆トイレすらも無い大通りで、静かな水の跳ねる音が聞こえた。人々の声、信号機の唄、募金詐欺の掛け声。その隙間で、波紋の浮かぶ水面、そこでゆらりと動く生物の、音が聞こえた。
「何してる。さっさと歩け」
私が僅かな音に揺らいでいると、私の目の前で、七竈が眉間に皺を寄せていた。一度私から離れたところでUターンして、戻って来たらしい。睨む彼女の顔を見上げて、「すみません」と歩みを戻した。
顔面の筋肉が、ピクピクと痙攣しているのがわかった。心にもない謝罪を飲み込んで、私はファミレスの明るい光に目を瞑った。
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