第31話
海の匂いは既に私の嗅覚を潰していた。女の背にある鉄扉は、うっすらとではあるものの、女の割れた頭蓋骨と、漏れた脳を反射していた。人ならざるものが、目の前にいる。ただそれだけのことだった。走って逃げて仕舞えばよかった。それなのに、私の足は動かない。濡れた女は、あるはずもない視界に、私を見ている。その中にいるだけで、筋肉が細かく震えて、動かなくなっていた。
これが恐怖心というものだろうか。だとしたら、恐怖とは、緊張の言い換えではないか。生物的な本能が、女の存在を否定して、私に逃げろと言っている。だが逃げられない。その矛盾が、過度の緊張を生んでいるのだ。痙攣する四肢の筋肉が痛い。僅かに、砂粒で廊下の表面を削るように、後ろににじり下がっていくしか、私が出来る事は無かった。
「なんで」
口が、開く。私のものではない。表情筋すら動かすことは出来ないでいた。問いを言葉にしたのは、紛れもなく目の前の女だった。
「なんであんたが」
流れるように、言葉というよりも、音のように、水を吐き出していく。口から溢れる飛沫を、開いていた口で拾って、舐める。海の味がした。波打ち際の岩を舐めたような味。その塩気に目が覚めて、瞼が動いた。
一気に筋肉が緩んで、重力に負ける。尾てい骨を床に打ち付け、天井を見た。反射的に、四肢が動く。腕で上半身を持ち上げた。視界を理解するより前に、女に背を向ける。少なくとも一度、立ち上がって、走り出さなければならない。目的の部屋番号は脳に焼き付いていた。怪異の研究をしているというのなら、この状況にだって理解があるはずだ。順番からして、部屋はこのフロアの奥に存在している。つま先で床を蹴り付けた。その途端に、顔面を硬い床に叩きつける。
粘液がくるぶしに垂れる。足首を掴まれていると理解するのに数秒、それが実に拙いと気づくまで、更に数秒を要した。手汗で床を滑る。少しずつだが、確かに私は女に引き摺られていた。何処に連れて行こうというのか、全くわからなかったが、ただそれが悪意を持っていることだけは理解出来た。
女から溢れ続けるフナムシが、足を伝って、服の中に入り込む。人間ですら安易に触れないだろう部分を、蟲が這う。嫌悪感で思考が停止する。次にどうするべきか、考え付かなかった。声を上げることも出来ない。カサカサという蟲の音と、女の肉と水の音に耳を澄ませるしか無かった。
「なんで」
私が何も出来ない中で、女はそれだけを繰り返していた。そんなことはこちらが聞きたい。なんで私がこんな目に遭っているというのだ。お前はなんだと、問い詰めたいのはこっちだった。
ゆるゆるとエレベーターに戻される中で、ふと、金属の擦れる音が聞こえた。目線を上げる。フロアの奥が見えた。ラフなジャージを着込んだ、少し背の高い人。スニーカーで床を鳴らす。チャリチャリと鍵の束を手に、その人は私を目を合わせた。
「それ、知り合い?」
咥えた煙草が上下する。煙の匂いはしなかった。発言が私へ向けられたものだと理解した瞬間、首を横に振った。
「そうか」
静かに、何も見えていないかのように、その人は平然と答えた。服装に見合わない優雅な歩きで、私と女に迫る。いつの間にか、私を引きずる女の動きが、止まっているのがわかった。ちらりと後ろを見る。女は水も、船虫も、吐き出すのをやめていて、呆然と上を向いていた。否、それが見ていたのは、私の頭にまで足を揃えた、何者かだった。
「海の底は寒かったか」
しゃがんでみて、ようやくその人が、細身の女性であることに気づく。優しく語りかける口元。全てが白く、輝いていた。服装さえしっかりすれば、何処かのお姫様だと言われても信じて疑わない。
「なら暖かくしてやるよ」
彼女はそう言って、咥えていた煙草にマッチで火をつけた。一息煙を口で転がすと、私に吹きかけた。思わず咳き込んで、彼女から目を逸らす。下を向けば、ボロボロのスニーカーが目に入った。息を整える。再び女性の顔を見上げた。彼女は私を見ていなかった。
煙草を持った腕が、私の足に伸びる。一瞬の躊躇もなく、彼女は火のついた煙草を、足首を掴む手に擦り込む。肉をフライパンに押し付けたような音。僅かな、蛋白質を焼く奇怪な刺激臭。それらに伴って、足首圧迫感が損なわれる。同時に、白い女性は私の腕を引き上げ、立ち上がる。バランスくらいは自分で取れと言わんばかりに、私を半分宙に放り出す形で、彼女は足を前に出した。その力強い足は、床に倒れ込んでいる女の、脳を四散させた。私は腕を引かれるがままに、ちょうど良く口を開いたエレベーターの中へと身体を押し込んだ。硝子に顔面を打ち付ける。短時間で二度も衝撃を与えられた鼻の血管が、プチプチという音を立てて切れた。
私が鼻を押さえている傍、女性は火の消えた煙草を咥え直して、もう一度マッチを擦った。摩擦熱が炎へと変じて、女性の手の中に灯る。彼女はそれを煙草に近づけるでもなく、エレベーターの扉に挟まった女の体に放り投げた。直後、炎は海水に濡れているはずの女の体に広がった。熱に侵された女は、暴れ始めるが、女性はそれを力いっぱいに蹴り付けて、エレベーターから弾き出す。
「厄介なものを連れ込むな。夢見が悪くなるんだ」
そう言って、閉まる鉄扉を背に私を見た。鼻で深く息をする女性からは、もう、煙草の匂いはしていなかった。代わりにガリガリと、硬いものを齧る音がした。彼女が咥えていたはずの煙草は、細い砂糖菓子になっていた。
「お前が花鍬樹?」
女性は私を睨みつけて、静かにそう言った。ズボンのポケットから、黒いキャップを取り出すと、彼女はそれを深く被った。そこまでして、やっと、私は、彼女が、昨晩駅前ですれ違った、あの女性であることに気づいた。
「はい、花鍬樹です。あの、すみません、貴女は」
恐れを抱かせる程の冷たく鋭い美貌は、女性らしくはない服装と、深く被ったキャップで和らいだ。そのおかげで、震えながらも、声を出すことが出来た。私が名前を問うと、彼女は後ろ手にロビーへのボタンを押した。
「僕は七竈。七竈ハラヤだ」
下がっていく鉄の空間で、彼女は平坦な声を響かせていた。
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