第24話

 シャワーを浴びるように、先生は乾涸びた百足の死体を体で受け止める。綴が私の腕を握った。生成も、部屋の壁に体を寄せて、少しでも遠くへ行こうと必死だった。冷静だったのは、先生と識君ばかりで、私は、この感覚をどう表現するべきか、迷っていた。乙女のそれと同じく、怯えて逃げ出そうとするか。それとも、果敢に先生へ手を貸すか。どれが正解か、判断がつかない。


「死体があるというわけではないな」


 首から上を天井に潜り込ませた先生は、そう呟いた。私の体は自然と、先生の近くに寄って、一緒になって暗い隙間を覗いていた。辺りに散る百足は、幻覚ではない。手にとってみても、触覚すら動かなかった。死んで時間が経っているようだった。ふと、その脚の一部に赤黒い付着物を見つける。

 それを指の腹で撫で落とした瞬間、先生の声が再び降り注いだ。


「しかし、過去に死体はあったかもしれない」


 先生は冷静に、腕を天井に伸ばしていた。手を引き伸ばした後、その指を鼻に近づける。先生の眉間に皺が寄った。ちらりと見えた先生の細い指先には、百足の脚にあったような、赤黒いものがこびりついていた。


「織部、降ろしてやるから、ここまで這ってこい」


 ゴトゴトと音がして、織部の荒れた息が近づいた。先生に支えられて、彼はなんとか天井からその身を這い出した。彼の手足や腹、鼻先は、埃などで黒く汚れていた。その一部は斑らに赤く、鉄の赤錆とも違う匂いが、薄らと漂った。識君が差し出すハンカチで、それらを拭う。その様子を見ているうちに、ふと、先生が私の前に立った。


「花鍬」

「はい」

「お前が百足を見たのはこの近くか」

「そうですね。妹の……この部屋の前あたりだったと思います」

「妹さんの名前は」

地楡ちゆです」


 その名前を他人に教えたのは、数年ぶりだろうか。可愛らしい少女趣味の地楡が、ここに住んでいたのだ。


「妹は……双子か? 学校には通っているのか?」

「いいえ、二つ下です。私が十八ですから……彼女は今、十六歳で、母の事件からずっと入院していて……通信制の高校に在籍しています」

「成程、ならここは、お前の母親が焼身自殺して以降、使われていないわけだ」

「一時的に外泊する時に使ったりはしていましたが……何故、私達が双子だと?」

「いや、もしそうだったなら、一つ二つ、懸念事項があったからな。違うなら良い」


 懸念事項という言葉に、一つ、心当たりがあった。

 ――――入れ替わりでもしていると、お思いでしたか。

 僅かな優越感が脳を支配して、私の意志とは別に、体を動かそうとしていた。それらを奥歯で噛み砕いて、飲み込む。理性は何とか言葉を仕舞う程度に働いていた。


「花鍬と菖蒲は、かつて暴漢の死体を山に埋めたんだったな」


 唐突な先生の発言に、綴が目を丸くしていた。何故それを、今、と、彼女は短く零す。私はそれを拾い上げるより前に、綴の手を握った。


「本当はここに隠していたのではないか、とか、言い出しませんよね」

「そんなわけないだろ。本当にここに丸々死体があったら、色々と染み出して、もっと早くに気づいている筈だ」

「では、何故、その死体の話を?」


 私と先生の間で飛び交う言葉を、織部と生成が交互に見る。目の前で殺人の過去を語られているのだから、無理もない。彼らにとっては、目の前で茶番劇を繰り広げられているようなものだろう。現実感は薄く、何を言っているのかすらわからない。それでも逃げずにいるのは、先生が睨みを効かせているからか。


「女子供が掘れる土の量なんて、限られている」


 先生は古い血の着いた手袋を脱ぎ、ポケットに入れた。そうして、窓から外を見た。日は少し下がり、気温も心地よい冷たさを漂わせていた。


「人間の死体というのはな、少なくとも数メートルは深く埋めないと、すぐに見つかるもんだ」

「やけにお詳しいですね」

「数年ほど、葬儀屋で働いていたからな。死体を見る経験は他人より多い」


 先生の前職に、理解しかけて、踏み留まる。素人の推測ではあるが、葬儀屋とはいえ、そんな事件現場に死体を回収しに行くようなことは無いだろう。どうしても、先生の素性も、考えていることも、いまいちわからないままだった。ただ、今、先生が、私達がかつて埋めた死体に、興味を移していることだけはわかった。


「死体を探すなら、山の少し奥に行かないといけません。生成先輩や織部先輩はここで待たせた方が良いと思います」


 お二人とも、お疲れのようですし。そう言って目線を濁す。今まで無関係だった人間が、死体まで見る必要はないだろう。実際、二人は精神を疲弊しているようだった。先生の脅迫に、不審者、殺人の過去――――理解し難い出来事を前にして、平気でいられる方がおかしい。


「あの」


 ふと、織部先輩が声を上げた。彼は少し申し訳なさそうに先生を見上げていた。


「最初に言ったと思うんですけど、俺達、後輩を一人で車に待たせてるんです」


 織部が私達にスマホの画面を見せた。そこには、恐らく件の後輩だと思われる「溝隠」と言う名前が、着信という単語と共にいくつも並んでいた。

 そういえば、彼らは当初、三人でここに来たと言っていた。その三人目が溝隠という人間らしい。


「もしも俺達がここで待つ必要があるなら、こいつもここに呼んで良いですか。流石にずっと放置するのは可哀想で」

「構わない。識と一緒に迎えに行ってやれ。お前達も車で来ているなら、そっちの車内で待った方が、気分もマシだろう」


 承諾をしつつも、しっかりと識君を付けているのは、やはり逃亡を恐れているのだろう。その意思を理解して、ピッタリと生成と織部に付く識君の、その手慣れた様子に、少々の寒気がした。

 織部のスマホが呼び出し音を響かせる。それを聴きながら、私と綴は、先生を先導して、階段を降りた。


「ねえ、樹」


 玄関まで来て、綴が私の耳元で囁いた。


「本当に死体、見せるの」


 声の僅かな震えが、不安を示していた。彼女にとって、私達の殺人は、秘密にしておきたかったことだったのだろう。


「大丈夫、ただの死体を、ただ見せるだけだもの」


 動いて、噛み付くわけでもないのよ。私はそう言って、口角を上げて見せた。より一層、顔を顰める彼女に、どんな言葉を与えれば良いのかは、わからなかった。

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