第3話
前も後ろもわからないまま、大学構内を彷徨い続ける。目に映る全てが色鮮やかな蝶で埋め尽くされている。しかし、それを美しいと思える状況ではなかった。翅に目を焼かれて、注目出来るのはその本体ばかりだった。蝶と言えど、その身体は、翅さえ毟ってしまえは芋虫と大差ない。情報量の多さに、視神経が焼ききれて、聴覚と嗅覚が主張を始めた。人の声は聞こえず、あの蛇玉から聞こえたのと同じ、硝子を擦る音が、耳にこびりついていた。同時に、本のページをめくるような蝶の羽ばたきが、何千と重なって脳を揺らす。甘い果実と花屋の青臭さを濃縮した香気が、意識を溶かした。
ついに五感を落としきって、私は、傍にあったベンチにもたれかかった。揺れる視界は、全体的に青い。恐らくここは外界なのだろう。肌に当たる風が、現実を指し示していた。
深呼吸を繰り返す。冷静になればなる程、自分が実は薬物中毒者なのではないかと疑念が過った。ただ、そんなものを体に入れた覚えはない。何より、多幸感は微塵も感じられなかった。
目を閉じて、耳を手で塞いだ。上がった息を整える。日差しが、頭部を焼いているのがわかった。足が痛む。今の時刻もわからないが、どうやら数分間は走っていたらしい。運動は得意な方ではない。息の吸い方もわからない状態で、よく走れたものだと思う。
どうも、思考は止まりそうになかった。口の端から、笑みが零れていた。表情を制御することさえままらない。
薄っすらと瞼を開けた。ひらひらと開閉する翅は、もう無くなっていた。スニーカーとスニーカの間には、コンクリートと僅かな雑草が生えているだけだった。光は日光だけで、色も毒々しい極彩色の連続ではない。鼻も、麻痺しているのではない。甘い香りの方が消え失せていた。
講義棟の裏で、私は蹲っていたらしい。人がいないことに、これほどまで安堵したのは初めてだった。
荷物は全て無事だった。反射的にスマホに触れる。まだ一限目は終わっていないようだった。友人を待たせているという事実はない。それだけで、指先が軽くなった。ただ、ゆっくりしている程の精神的余裕はなかった。両足に力が入る。スマホの画面に構内図を映した。バス停が三か所もある広大な敷地を、入学から数日で把握するのは難しい。先日オリエンテーションがありはしたが、自分の所属学部以外は頭に入れる隙が無かった。今、私がいる講義棟は、私と友人が属する学部ではない。壁伝いに、建物の形を覚えていく。地図とそれらを擦り合わせている内、眠気が瞼に降りかかった。首を振って、曇りを払う。
数分歩き、建物の中に入れば、春の陽気は冷ややかな蛍光灯へと切り替わった。廊下を歩く足が重い。目を伏せて、すれ違う人々の顔から目線をずらした。背を丸めると、体の節々が痛んだ。肺の膨らみが足りない。唇の先で空気を舐めた。スパイスと油分の僅かな香りを舌先が絡めとる。午前中の食堂は、まだ人も少なく、喉かな空気感が漂っていた。
窓際のカウンター席に腰を下ろす。私はそのまま、荷物を置いて、券売機に駆け寄った。朝食を食べていないのは本当だった。食堂のラインナップは、男子学生に向けたような、脂質と炭水化物の組み合わせが多かった。
千円札を入れる。自然とからあげ定食というボタンに手が伸びた。待ち合わせ前に食べるものではないとは思うが、ボタンを押してしまえば後戻りは出来なかった。
券を持って、セルフサービスの水を手に取る。水面はあまり揺れていない。手の震えは止まっていた。気温と、他人の会話が心地いい。窓から見える通行人を観察するのも、楽しいものだった。時々視界に入る蝶は、春の羽化で色あせた個体ばかりだった。それらが硝子を突き抜けて来ることは無かった。
番号を呼ばれて、立ち上がる。受け取り口に立てば、熱気を背にした中年女性が、満面の笑みで待ち構えていた。
「からあげ定食お待ちどう様」
食券と引き換えに、山と積まれた鶏肉と白米を手に取った。いっぱい食べるのね、と声をかけられるが、私は口角を上げるので精いっぱいだった。箸を一膳盆に取り上げ、席にも度った。
「本当によく食うわ、アンタ」
カウンター席、私の荷物の隣で、一人の女が微笑みを称えていた。濃いアイシャドウと、真っ赤な口紅に目を魅かれる。
友人――――
「早かったね。まだ一限が終わる時間じゃないでしょう」
荷物の前にお盆を置く。荷物を横にずらして、綴の横に腰を落とした。
「パソコンかちゃかちゃするだけの授業だったんだもの。課題終わったから、とっとと出て来たの。アンタのこと待ちながらお茶でもしようとおもってたんだけど」
「そっか、私、朝ご飯食べるのに時間かかるし、綴もお茶したらいいよ。朝からの授業、お疲れ様」
「……お昼、奢ろうと思ってたんだけど」
「本当? それはありがたいな」
「待って、アンタそれでまだ食べるの」
目を丸くする綴の横で、からあげを一つ頬張る。黙々と箸を口に運ぶ私を、彼女は乾いた口で笑っていた。
白米を飲み込むうちに、喉に引っかかっていた恐怖心は、胃袋の中に溶けていった。
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