第2話

 瞼を開ける。白く心地良い日光が、窓から私を照らしていた。芳香剤の匂いは記憶こそしているが、今は感じられない。代わりに、消毒液のアルコール分が、私の鼻孔を塗り替えようとしていた。周囲は白いカーテンに囲われていて、自分がベッドの上で横たわっていることがわかった。

 数秒、息を殺していると、プルプルと電話の呼び出し音が鳴った。それが止まると同時に、低い女の声が聞こえた。


「保健室です。今よろしいですか」


 どうやら、私が横になっているのは、大学の保健室のベッドだったらしい。女は、電話の向こうに相槌を打ちながら、踵を鳴らしていた。近づいた足音が止まる。


「あら、良かった」


 カーテンを開けた女は、私の顔を見て、にっこりと笑った。


「えぇ、すみません、大丈夫みたいです。容態が変わったらまた連絡します。はい」


 白衣の女は電話を切ると、傍にあったパイプ椅子に腰を下ろした。彼女は私と目を合わせると、再びパッと口を開き、歯を見せて笑う。仄かに香る柑橘の香りは、彼女の健康的な顔を誇張していた。


「大丈夫? 貴女、さっきトイレで朦朧としていたのよ。自分の名前は言えるかしら」

「花鍬、樹です」

「花鍬さんね。一限に授業とかなかったの」

「今日は、私は授業は無いんですけど、一限に授業がある他学科の友人と待ち合わせていて」

「あら、そう。良かった。一人で過ごすわけではないのね。貧血症状が出てるみたいなんだけど、立てる?」


 女は立ち上がって、私の手を取った。ベッドから足を降ろす。冷たいままのスニーカーが、私が意識を失って間もないことを示していた。


「靴を洗っていたの?」


 立ち上がった私に、女は言った。


「通学路で、大きな蛾を踏んでしまって、気になったので」

「それは災難。一応キッチンペーパーで拭いておいたから、もう大丈夫だと思うわよ」

「ありがとうございます」


 無償の施しに、どうしても気が引けてしまった。彼女は多分、校医として当然のことをしているだけなのだろうが、何処か、裏のある好意に似たものが匂った。そんな、あるわけもない錯覚が、確かにあった。


「うん、顔色は悪くないわね。今日はゆっくり休んでね。お友達と遊びに行くなら、無理はしないで」


 嫌味も無く前髪を指で除け、彼女は笑った。荷物はこれで全部か、もうふらつかないか、校医の女は立て続けに世話を焼いた。その度に、礼を口にする。そうしている内、何か言葉が軽くなるような気がして、次第に首を縦に振るだけになっていった。


「病院で診てもらいたいなら、紹介状を書いておくけど、どうかしら」

「結構です。多分、朝食を抜いたのがいけなかったのだと、思うので」

「わかったわ。また何かあったら保健室ここに来て。私がいなかったら、教務課に"桑実"を呼んで欲しいって言えば良いから。お悩み相談も大歓迎! お友達と一緒にお茶会しに来ても良いわよ! 皆何かあったら附属病院に行っちゃうから、ここは基本的に暇だしね!」


 ――――校医の女、桑実はそう言って、名刺を差し出した。保健室の電話番号を確認して、定期入れに刺し込んだ。時計を見てみれば、友人との待ち合わせ時間までは、まだ時間があった。


「ありがとうございます」


 それでも、ただ、桑実のその明るさが眩し過ぎて、胃もたれを起こしそうになっていた。荷物を手に、廊下への扉を開けた。桑実は静かに手を振って、口角を上げていた。私は僅かに頭を下げた。


 廊下には窓が無く、冬を引きずったような寒さが漂っていた。左を見れば、数メートル先にトイレがあった。この狭く冷たい道を、桑実は私を担いで歩いたのだろうか。改めて、自分の態度が失礼ではなかったかと、頭を抱えた。数日内に礼をしに来た方が良いと、脳の端に記憶を置いた。

 友人と会う予定の食堂へと足を向けた。ふと、対角線上から、コツコツと気持ちの良い足音が聞こえた。視界に入る足先は、手入れの行き届いた革靴があった。品の良いスラックス、白く清潔なシャツ。視線を上げる。自然と、その人物が好青年であることに期待している自分がいた。


 ――――その首より上が、大量の蛇であることに気付いたのは、彼とすれ違う一秒前のことだった。

 塊になって交接する蛇は、鱗を擦り合わせて、涼やかな擦り硝子のような音を響かせていた。

 足が止まった。数十の蛇が私に目を向けたからだった。赤い眼球が、私の青冷めた顔を映していた。


「えっと……大丈夫、君」


 蛇の隙間から、若い男の声が聞こえた。何処か温かみのある、優しい声だった。冷血動物の悍ましさと、温もりの確かな彼の身体が、アンバランスで、脳は先程の一件宜しく、処理を止めようとしていた。首を振って、何とか返答を絞り出そうとした。しかし、吐き出せるのは胃液の香る浅い息ばかりで、音声にはならなかった。


「保健室、すぐそこだけど、支えようか」


 青年はそう言って、その大きな手を差し出した。私は考えがまとまらないままに、震える手を出していた。

 指先が青年の手に触れた。その瞬間、ボトリと何か、ゴムにも似たソーセージのようなものが、私の手の甲に落ちた。それは蠕動運動を繰り返し、私の腕を伝って、服の中へと入ろうとしていた。


 ――――ボロ、ボト、ボロボロ、ボトボトボトボトボトボトボト……


 気が付けば、蛇玉の隙間から、まるで垢が剥がれるように、何十という”蛭”が産み落とされていた。粘液塗れの私の手は、蛭と蛇で出来た青年に握られた。


「イヤッ!」


 手を振りほどき、思い足を持ち上げた。思う以上の大声を上げたらしい。廊下には、暫く私の叫びが反響していた。

 逃げ出す不明瞭な視界には、名前のわからない蝶が溢れていた。鱗粉で息が出来なくなったまま、私はただ、走っていた。

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