夢蟲の母

棺之夜幟

一章 翅

第1話

 蛾を、丸々と太った雌の蛾を、踏み殺してしまった。アスファルトにスニーカーを擦り付ければ、数千の卵を潰す感触が毛穴を逆立てた。恐る恐る足元に目をやる。粉々になった翅と、ヘモグロビンの無い黄色の体液が混ざって、乾き始めていた。春の風に飛ばされた、白い欠片は、花弁に擬態して人々の間を舞う。踏み潰した私だけが、それが昆虫であったことを理解していた。

 ふと、急ぎ歩きのサラリーマンが、私と肩をぶつけた。腰を低くして頭を下げる彼に、私も合わせて一礼した。もう一度、足元を見る。蛾の死に跡は、煙が溶けたようにその場から失われていた。一瞬、足裏に張り付いた蛾を想像して、歯を軋ませた。


 私は運のいい方だと思う。大学の女子トイレは、今日に限って無人であった。スニーカーの裏にこびりついているであろう蛾の死骸を洗い落とすには、無人が丁度良かった。右足だけで体を支える。洗面台は狭いが、スニーカー一足を洗う程度であれば十分だった。

 潰れた蛾を見ないように、靴裏に水流を当てた。黒い泥水が筋を作る。だが、どんなに洗っても、タンパク質の塊が下水道に落ちていく様は見られなかった。左足に走った柔らかな感触を思い起こす。あれは確かに、一つの生物を平らに均す時のそれだった。けれど、私の目では、あの大きく白い蛾のこびりつきを視認することは出来なかった。私の手にあったのは、水で濡れただけのスニーカーだった。冷えたそれを履き直し、今度は右足の裏を見た。アスファルトと廊下のリノリウムを踏んだだけのスニーカーには、ガムすら付着していなかった。

 朝のぼんやりとした脳が、勘違いをしたのかもしれない。それか、ここに来るまでに、蛾が形を失って、何処かで落ちたのだろうか。

 私は、目いっぱいの空気を吸って、長く、息を吐いた。消し切れない不快感を洗い落とすために、両手に水を溜める。春先の水の冷たさは、絹針を刺す様に、私の指先を赤くした。滴る冷水を、一気に顔に被せる。顔面に百ミリリットル程度の水が触れ、流れ落ちる。落ちそびれた水気が雫になって、白い洗面台の上を滑っていった。

 鏡には特に変わらない、いつもの私が映っていた。強いて言えば、水分を含んだ毛先が頬に張り付いてこそばゆいくらいだった。


「――――樹、花鍬はなくわいつき。しっかりなさい」


 自然と、私の口はかつての祖母の呪文を唱えていた。五年前、祖母は私にそう声をかけて、私の目の前で死んだ。私の名前を私に刻み付け、その名で歩んで行けと、その強い声色が未だに耳にこびりついている。


 ――――蛾を踏んだ程度で怯える者が、この先一人で生きていけるとお思いですか。


 頭の中で、祖母が言う。真っ直ぐに伸びた背骨と、見下す視線が、脳の内側から私の心臓を刺そうとしていた。


「おばあ様、私は」


 反論が零れそうになって、必死に口を抑えた。女が一人、女子トイレですることではない。妄想の祖母をかき消すために、私はもう一度、大きく息を吸った。芳香剤の匂いが、吐き気を導く。水分と香料を含んでいても、酸素濃度は私の目を覚ますのに十分だった。

 重たかった瞼を数度開閉して、鏡に目を向けた。冷えた鏡面に人差し指と親指を添えた。未だ頬に張り付く髪に気が付いて、冷たくなった指で耳にかけた。

 口角を上げて、表情を作る。耳の下の筋肉がピクピクと動いた。硬い微笑みで、引きつった筋繊維がパキと音を鳴らす。


 そんな唇の動きに追い出されるように、私の耳から芋虫が落ちた。


 唐突な違和感に、脳の動きが一時停止する。コンマ数秒の後、今度は過分な速さで状況の処理が始まった。


 ――――私の耳から出たのは、確かに芋虫だったか?

 ――――そうだ、縞模様の美しい、私の指よりも太い、蝶の幼虫だった。


 落ちた芋虫は、床で、苦痛に悶えるように、未だに存在している。耳穴には先程まで何か生命が這っていた感覚が残っているようにも思えた。不快感の上塗りを試みて、人差し指を耳穴に入れた。指を引き出す。入れる。引き出して、入れる。摩擦に耐えられなくなった耳孔の皮膚が痛んで、私は指先を見た。芋虫の体液は付着していない。だがそれは確かに存在している。自らの眼球と脳へ、疑いだけが募っていく。私は何をして、何を見ているのか。

 今のところ、触覚だけが私の知る現実を裏切っていない。

 完全無欠の現実を欲して、私の足は無思考のままに、動く芋虫を踏み潰した。足裏で、柔らかな体液が床に広がる感覚があった。蛾を殺した瞬間を思い起こす。あの時も、確かに、私は"蛾"を潰したのだ。ゆっくりと足を引き上げて、潰れた芋虫を覗き込んだ。


 タイルの隙間に体液を流すのは、一匹の蝶だった。バラバラに崩れた黒い翅が、生前の美しさを想像させた。


 ――――今、私は夢でも見ているのか?


 幻覚にも似た事象の中で、私の脳はあらゆる感覚を断とうとしていた。トイレの冷たさがわからなくなる。講義前のチャイムが途切れる。芳香剤はあっても無くてもかわらない。


 視界に、私を見下ろして、大丈夫かと口を動かす女がいた。そこで私はやっと、自分がトイレの床に倒れていることに気付いた。

 女の問いかけに、自分が返答できたかもわからないまま、私の意識は暗闇に放り出された。

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