第674話 署名をする男

 なんとなく虫の知らせみたいなのはあった。


 12月半ば頃から、70歳代の女性入院患者の応答が徐々に悪くなっていたのだ。

 ここ数日間は微熱も出ていた。


 家にいると落ち着かないので年末年始の休みではあったが病院に出向いた。

 担当医は田舎に帰っているから、何かあったらオレが対処しなくてはならない。


 カルテを見ると前日に39度台の発熱があった。

 たまたま当直だった総合診療科そうしんの医師が血液培養を採取して抗菌薬を開始してくれている。

 抗菌薬が奏功して熱が下がるのに2、3日はかかるだろう。


 病室におもむくと偶然にも患者の家族が面会中だった。

 オレは熱が出ていること、抗菌薬を開始したこと、熱が下がるのには数日かかるということなどを説明した。


「血液培養の結果が確定するのに3日かそこらはかかりますが、検出された起因菌によっては抗菌薬を変更することもあります」


 家族はオレの病状説明にうなずいていた。

 全身状態は良くないながらも安定している。

 カルテに説明内容を書いてから帰宅したが、まさかもう1度呼び出されるとは思わなかった。


 夕食後、例によって YouTube を聴きながら食器を洗っていた。

 突然、イヤホンから流れていた声が中断し「プルルルル」という電話の呼び出し音に変わった。

 病院の事務当直からだ。


「お休みのところ失礼します。〇〇病棟におつなぎします」


 しばらく音楽が鳴って病棟につながった。


絹川万津子きぬかわまつこさんなんですけど、21時頃から心拍がだんだん延びてきて先ほどからフラットになりました」


 それ、死んでんじゃん!


「御家族への連絡は?」

「皆さんお揃いです」


 そいつは手際がいいな。


「よし、すぐ行くから病棟当直の先生に頼んで死亡確認だけしておいてもらえるかな」

「わかりました」


 というわけで、YouTube の続きを聴きながら病院に向かって車を走らせた。

 まさか、死亡診断書作成のために再出勤になるとは!



 病院の自室についてから電子カルテをチェックする。

 20分ほど前に病棟当直医が死亡確認をしていた。


 急いで着替えて病棟に行く。

 詰所に声をかけてから病室をのぞいた。

 息子夫婦、娘夫婦と孫たちが患者を囲んでいる。


 患者の顔は血色が全くない。

 紙のように白いとはこのことだろう。


「休み明けまではもつと思っていたのですが、まさか今日とは思いませんでした」


 そういうと家族は、いや遺族と言うべきか、口々にお礼を言った。


「絹川さん……」


 オレは患者に呼びかけたが、もちろん返事はない。

 意識がはっきりしていた時は結構、自己主張をする人だった。

 それがなくなってしまうと何だか淋しさを感じる。


 感慨にふけっている暇はない。

 オレが来たのも死亡診断書を作成するためだ。


「死亡診断書用紙はあるかな?」


 詰所に戻ったオレは担当ナースに尋ねた。

 左側が死亡届になっているA3のものと、A4単独のものの2つを作成しないといけない。

 いつもはカーボン紙を使って1度に書くんだけど。


「電子カルテで出せると思いますよ」

「ええっ、電カルになったのか。それだったら助かるぞ!」


 だいたい死亡診断書なんか手書きだと1回や2回は書き損じるものだ。

 その点、電子カルテだとそれがない。


 実際、電子カルテの文書作成フォルダの1番上に書式が入っている。

 これを開けてみると誰かが作ったのか、エクセル形式の死亡診断書が出てきた。


 患者氏名や生年月日などは最初から入力されているので、直接死因やその原因などをワープロで埋めていくだけ。

 拍子抜けするほど簡単に作成できた。

 念のため印鑑を持参していたが、それも不要だ。

 というのも医師の署名だけで済むからだ。


 思い起こせば元号げんごうが変わって最初に作成した手書きの死亡診断書。

「令和」と書くべきところを「永和」と書いて、遺族に指摘されてしまった。

 実際、永和というのは14世紀の元号だ。

 あわてて書き直してことなきを得た。


 それにしても電子化は画期的だ。

 死亡診断書1枚書くのも楽になった。

 もう手書きの時代には戻れそうもない。

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