第400話 泣き出した男 2

(前回からの続き)


Difficult Airway, いわゆる困難気道と呼ばれるもの。

調べれば調べるほど、そこには色々なドラマがあった。


「外科医といえども生身なまみの人間、喉を切るのは抵抗がある」と言った。

「じゃあ、お前は気管切開をしないのか?」とかれるかもしれない。

確かに気管切開をすることもある。

が、切るのは人員や手術器具が万端ばんたんセッティングされている状況だ。

出血なんかほとんどない。


術者と助手、さらに麻酔科医との間で手順を十分に打ち合わせる。

オレなんか無影灯の角度まで気になるので自分で動かす。

自分で気管切開チューブのカフをふくらませてキシロカインゼリーを塗る。

気管切開は比較的単純な手技だが失敗すると命が危うい。

だから慎重な上にも慎重な準備を重ねてから行う。


じゃあ、いざ窒息が起こったときに病室で気管切開ができるのか?

手術室ではいつもやっているが病室では無理だ、断言する。

目標とする気管軟骨は深く甲状腺の裏に隠れている。

だから術野を展開して気管を露出するには筋鈎きんこう三爪鈎さんそうこうが必要だ。


気管切開の代わりとして緊急時には輪状甲状靭帯りんじょうこうじょうじんたいを切ることになる。

こいつは気管軟骨より少し上にあり、また皮膚の直下だ。

だから正確な位置さえ分かれば切るのはさほど難しい手技ではない。

逆にいえば、皮膚の上から正確な位置を同定する必要がある。

皮下に巨大な血腫ができて気管が偏位していたりしたらかなり困難だ。


さらに、緊急事態では、とことん条件が悪い。

必ずといっていいほど物がそろっていない。


ちゃんと皮膚を切ることのできるメス。

術野を照らすライト。

何よりも気管切開チューブがどこにもなかったりする。


仮に器械が揃っていても緊迫した状況では話が違う。

そういった状態で冷静に切ることのできる外科医はごく少数だろう。

全身麻酔のかけられた予定手術とは全く異なっている。



そこで、裏ワザ的な手技が使われる事がある。

主として麻酔科医が使う。

気管挿管でも輪状甲状靭帯切開でもない手技だ。


1つは逆行性気管挿管。


オレは麻酔科の研修医時代に1回だけ見たことがある。


手順はこうだ。

複雑なので読み飛ばしてもらって構わない。

 輪状甲状靭帯に18Gゲージの注射針を頭側に向けて刺す。

 そこから硬膜外麻酔用のチューブを入れ一旦口から外に出す。

 一方、鼻孔びこうから胃管を挿入して、これを口から外に出す。

 胃管に硬膜外麻酔チューブをくくりつけて鼻孔から引っ張り出す。

 これで気管から鼻孔まで硬膜外麻酔チューブがとおった事になる。

 次に鼻側の硬膜外麻酔チューブを気管チューブのマーフィーこうに通す。

 気管チューブを鼻孔から挿入して、そのまま気管まで入れてしまう。


オレが見たときは当時の助教授が研修医2人に指導しながらやっていた。


「よし、先生はチューブのこっち側を引っ張ってくれ」


助教授は研修医に注射針側の硬膜外麻酔チューブを引っ張らせた。

鼻孔側の硬膜外麻酔チューブはもう1人の研修医に引っ張らせる。

そうしておいて鼻孔から挿入した気管チューブを押していった。

患者が「ゴホッ、ゴホッ」という咳き込む。

気管チューブが気管内に正しく入ったサインだ。


その時の助教授は全く動じずに落ち着いていた。

もしチューブが入らなかったら患者が死ぬかも、という状況だったのに。

だから、一見して難しい手技には見えなかった。


しかし「これは大切な手技しゅぎだ!」とオレは思った。

だから頭の中で何度も復習し、何十年経った今でも手順を憶えている。


ただ、このやり方は手術室に常備している物品を用いている。

硬膜外チューブなんか病棟や救急外来ERには置いていない。


そこで別の裏ワザが登場する。


(次回に続く)

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