第375話 納税を妨害される男

前夜の救急で腰椎ようつい圧迫骨折が疑われる男が入院していた。

整形外科は手術対象の患者しか担当しない。

ゆえに総合診療科に割り付けられた。



入院後のカルテを読むと暴言だらけだ。

「リハビリはやらん!」

「お前らもっと丁寧に扱え」

「帰らせてもらう」

などなど。


ついに昼過ぎにオレが手術室から病棟に呼び出された。


患者はベッドに寝たまま奥さんや病棟ナース達に囲まれている。


「あんた、ちゃんと先生や看護師さんたちの言うことを聞かないと!」


奥さんは懸命に患者を説得している。


「世話してもらっているんだから」

「黙っとれ!」


話にならない。

一応、オレも発言した。


「世話をしてもらっていなくても、暴言はダメですよ」

「何を言うとるんや!」


元々怒りっぽい人のようだが、高齢になって拍車がかかったのか?

よくこれまで社会人としてやってこれたもんだ。

家では何を言っても勝手だけど、病院での暴言は許されない時代だ。


「別に怒らなくても普通にしゃべればいいじゃないですか」

「なんやと?」

「治療に御協力いただけないのなら、お帰りいただくしかないですね」


皆が黙ってしまった。


「じゃ、退院で」


電子カルテに「退院許可」と入力してオレは手術室に戻った。

あまり長く話を続けていると、こっちが暴言を吐いてしまう。

結論は見えているのだから話すだけ時間の無駄だ。



ところが話は簡単ではなかった。

オレが去ったあと、皆で患者を説得したらしい。


「入院を続けていただくことになりました」


病棟からの電話にオレは仰天した。


「えっ、もう退院許可を出しちまったよ」

「ですから、そのままにしておいてもらって、何かあった時に退院してもらいます」


つまり、退院許可の指示は取り消さず実行権限を病棟ナースにゆだねてほしい、ということだ。

オレの仕事が増えるわけではないので特に断る理由はない。


しかし、後で考えれば「皆で説得した」というのが第1の悪手あくしゅだった。



再び病棟に呼び出されたのは夜になってからだ。

暴言が止まらない、ということだった。


「今度こそ退院してもらいます。夜間は看護師が減るので対応できません」


そう夜勤ナースに言われてオレは病室に行った。


「また暴言を吐いているそうですね」

かねが……、かねが……」


そう言いながら患者は腰のあたりをさすっている。

これ、譫妄せんもうじゃん!


「何か使ったの?」

「リスパダールを使いました」


鎮静剤を打ったのか!

入院時に研修医が出した指示が残っていたのだ。

取り消しておくべきだったが、普通はそこまで気が回らないよな。


鎮静剤は第2の悪手あくしゅだった。


よく見れば患者は酸素マスクをしている。

酸素飽和度は95%ぐらいだ。


「こりゃ退院できないな。ちょっと酸素をはずしてみようか」


あんじょう、酸素マスクを外すと80%を切る有様だ。

このまま帰したら夜中に家で死んでいたということになりかねない。


「〇〇さん、お願いだから……」


オレは患者に取りすがって泣く真似まねをした。


「もう1度、僕に怒鳴ってくださいよ。『馬鹿野郎!』って……」


もう夜勤ナースは顔面蒼白だ。

せっかくのオレのギャグ、笑ってくれよ。


「暴言が出た時点で『アウト!』ってやる作戦だったのに。申し送られていなかったのかな?」

「すみません」

「じゃあ、仕切り直しか。リスパダールが切れるまで待つしかないな」


リスパダールが切れるのは夜中か明朝か、2~3日後か。

それは本人を含めて誰にも分からない。


「自己退院の書類だけでも先に作っておいていただいたら」

「そんなもん作って一人歩きしたらダメだろう」


この流れからすると第3の悪手あくしゅになってしまう。


「この人が正気しょうきに戻って暴言を吐きだしたら何時いつでも呼んでくれ。夜間休日やかんきゅうじつ関係なしだ。僕が病院に来て手続きするから」



そうは言ったものの、週末は家で確定申告の準備をするつもりだった。

何十枚もの源泉徴収票やら寄附金受領証明書がオレを待ちわびている。

万一、病院に呼ばれてしまったら締め切りまでに間に合うのか。


頼む、確定申告をさせてくれ。

オレは納税をしたいんだ!



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