第365話 スポーツクラブに行く男 3

(前回からの続き)


 遠い昔の夏休み。


 オレは妻とともにタイのプーケットで過ごした。

 泊まっていたホテルでは色々なアクティビティーがある。

 ゴルフやテニスに混ざってムエタイというのもあった。


 ムエタイというのはタイ式ボクシング。

 日本ではキックボクシングと呼ばれている。


 で、オレはムエタイ教室なるものに申し込んでみた。


 約束の時間、ホテルのロビーにムエタイボクサーがやってきた。

 なんで分かるかというと試合に出場する格好で来たからだ。


 彼に連れられて妻とともにホテルの敷地の外れに向かう。

 後ろから見ると小柄ながらふくらはぎの筋肉が盛り上がっている。

 無数ともいえる傷跡がちょっと怖い。


 サンドバッグをぶら下げた屋根付き相撲場みたいなところに着く。

 すると茂みの中から大柄なタイ人がヒョイと現れた。

 彼は愛想がよく英語も上手い。

 どうやら不愛想なムエタイボクサーの相棒みたいだ。


 ムエタイボクサーはミノイ、爽やか青年はカセムと名乗った。


 まず最初にカセムがムエタイの由来と500年の歴史を語り始めた。

 そして構え方とかサンドバッグ相手のパンチとか、色々と教わる。



「何かリクエストはあるか?」


 そう尋ねられたオレは「ネック・レスリングをやってみたい」と答えた。


 ネック・レスリングは日本語で首相撲と言う。

 両手を組んで相手の首を固定し膝蹴りを入れるムエタイ独特の技だ。

 他には無い技なので異種格闘技戦では相手選手が為す術なく倒される。

 だからムエタイ以外は最初からルールで禁止されている事も多い。


「ネック・レスリングをリクエストされたのは初めてだ」


 そう笑いつつミノイはオレに組んできた。


 いやいや、タイまで来て首相撲をやらずに帰る?

 それ、あり得ないっしょ。



 かなり体格差があるので首相撲でミノイに力負けする事はない。

 が、オレの膝蹴りはほとんど不発に終わった。

 ミノイが巧みに体をじって避けるのだ。


 いっその事、このまま投げてやろうか。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、"That's dangerous." (そいつは危ないぞ) とミノイに言われた。

オレの頭の中が読めるのか、こいつは?


"You're right." (そりゃそうだな)

 オレは何食わぬ顔で返事をした。



 一緒に汗を流すと理屈抜きに親しくなれる。


 サンドバッグ相手の蹴りの練習ではカセムや妻まで口を出してくる。

 ミノイがサンドバッグを押さえ、カセムがオレの体を支えての練習だ。

 が、オレのへっぴり腰に皆があきれかえっている。


「もう、見てられないわ」

 とうとう妻がサンドバッグの前に立った。

 パンッ!

 腰の入った中段回し蹴りが叩き込まれた。


 ミノイもカセムも目を丸くして驚いている。


 この人、学生時代に糸東流しとうりゅう空手をやってたんだ。

 忘れてた。


(「スポーツクラブに行く男」シリーズ 完)


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