第336話 呪いによって倒れた男

どの病院も経営が大切な事は言うまでもない。


ウチの病院でも各診療科ごとに売り上げや利益が計算される。

計画以上の成果を出したところはめられ、そうでない所は改善策を出さなくてはならない。

これはこれで必要な事だと思う。


が、数年前に悪夢の原価計算表というのがあった。

当時のメンバーは大きく入れ替わったので憶えている人間も少ないはず。

でも、オレは忘れることができない。


7~8年前の事だろうか。

突如、何かの会議でA3用紙に細かい字でプリントされた表が配られた。

事務方による渾身こんしんの作品、原価計算表だ。


作成に何時間かかったのだろうか。

病院の固定費が、各診療科に按分あんぶんされていた。

ちなみに固定費の大部分は人件費である。

そして売上から薬剤・材料費と按分された固定費を引いたものが各診療科の医業収益とみなされた。


普通の企業なら不採算部門のあぶしに使うのかもしれない。

が、オレにはあまりいい考えとは思えなかった。


絶対値で各診療科の医業収益を出したらお互いの比較になってしまう。

最高の診療科と最悪の診療科の差は一目瞭然だ。


で、成績の悪かった精神科の部長の機嫌が悪くなった。

次の会議では自ら作成した文書を出席者1人1人に配った。

そこには、なぜこのような原価計算が良くないのかが書かれていた。

内容は忘れてしまった。

でも、彼なりの思いが凝縮されていたのだろう。


今になってみれば精神科に肩入れしたくなる。

当時の精神科は救命センターをはじめとして各診療報酬の上位基準をとるために外来・入院診療からリエゾンにかじを切っていた。

リエゾンというのは簡単に言えばコンサルの事だ。

自殺を図って救命センターに搬入される患者は例外なく心を病んでいる。

だから精神科医が必要とされるし、そのような患者に対応している救命センターの診療報酬は手厚くなっている。


当然、精神科自身の収益はボロボロだ。

しかし、リエゾンを行うことによって病院全体の収益には大きく貢献している。

それが原価計算表には全く反映されなかった。


また、収益などというものは2年に1回の診療報酬改定で簡単にひっくり返る。

前年度までのかせがしらが今年度はさっぱり、ということも珍しくない。

さらに当時は経営上のお荷物だった救命センターが今では重症コロナ受入れに伴う補助金で大きく収益をあげている。

だから病院経営は部分最適化より全体最適化を図るべきだとオレは思う。


さて、原価計算表については「各診療科同士の比較ではありません。むしろ前年度との比較をしてください」と事務方じむかたが懸命に説明したが、部長先生たちは聞く耳を持たない。

按分の仕方がおかしいとか、この非常勤医師の係数がおかしいとか。

そりゃ文句も言いたくなるだろう、皆、くたくたになるまで働いているのだから。


そして悲劇は突然起こった。

の精神科部長が脳出血を起こしたのだ。

当然、原価計算表ののろいだ、と皆が思った。


後遺症のせいで自分が患者に心配される側になってしまった精神科部長は病院を去った。


その後、病院は粗利あらりで計算するようになった。

計算する方も楽だし、診療科同士の比較もなくなった。

病院全体の固定費なんか年度によって大きく変わるわけもない。

だから売上から薬剤・材料費を引いた各診療科の粗利だけでも経時的変化が分かる。


ところが最近になって、また原価計算をやろうという声が出始めている。

固定費を按分しようとか、医師の人数を厳密に計算しようとか。

人が入れ替わったせいか、あの悪夢が忘れ去られたに違いない。


オレは頭が痛くなってきた。

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