第301話 間違った椅子に座った男

1つ1つの手術は1時間そこそこだ。

しかし、それが連続3つとなると疲労困憊ひろうこんぱいする。


そんな中でミスは起こった。


「おい、デュラジェンは敷いたか?」


術者が尋ねる。


「ええっと、敷いたかな」


レジデント2人も疲れていて記憶が曖昧あいまいだ。


「ここにありますけど」


直接介助看護師スクラブナースに言われて事がはっきりした。

硬膜の上に敷くべきデュラジェンが、器械台の上に残っている。

つまり、敷き忘れたってことだ。


「おい、しっかりしてくれよ」


そう言いながら術者は椅子にへたり込んでしまった。


「すみません。やり直します」

「ネジ回し下さい」


レジデント達はせっかくネジで固定した骨弁を外しにかかる。

6本のネジで止めていた頭蓋骨を外し、硬膜を露出する。


しかし、1回使ったネジを再度使うことができるのか?

ネジ穴だってガバガバになっているかもしれない。

そんな時のためにレスキューという名前のやや太いネジもある事はあるんだけど。



それにしても疲れる話だ。


そもそもデュラジェンを敷き忘れたというのはレジデント達だけの責任ではない。

術者も気がついていないし、外から見ていたオレもすっかり忘れていた。

疲れている時ってのはこんなモンだろう。


そんな事を考えている時にオレは重大な事に気づいた。


術者がドカッと座ったのが麻酔科医の椅子だったのだ。

女性麻酔科医は困った表情で立っている。

術者のあまりの落胆ぶりに、声をかけることもできない。


「それ、私の椅子なので返して下さい」と言うのもかどが立つし。


果たしてこの結末はどうなるのか?



術野ではレジデント達が今更いまさらながらデュラジェンを敷いて、骨弁の固定にかかっている。

ネジはうまくはまるのだろうか。


術野の外では間違った椅子に座った男がいる。

オレはそっとスマホで写真をってやった。


その時だ、外回りナースが別の椅子を持ってきた。


「先生、こちらの椅子を使ってください」


突然、状況に気づいた術者はピョコーンと立ち上がる。


「あっ、すみません!」


続いて四方八方に謝り始めた。

ようやく間違った椅子に座っていることに気づいたのだ。


なるほど、こういう結末を迎えるわけね。



一方、術野の方もレジデント2人が黙々と骨弁を固定し、頭皮の縫合にかかっている。

疲れながらも業務を遂行する若さというのは素晴らしい。


それにしても脳外科医が間違えて麻酔科医の椅子に座るというのも前代未聞!

たとえて言えば、平社員が間違えて隣の課の課長さんの席に座ってしまったみたいなもんだ。


忘れてしまうにはしいエピソード。

是非、術後カンファレンスで披露して、伝説にしてやろう。

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