第272話 ドクター・コールされた男

医療従事者メディカル・パーソネルはおられますか?」


国際線の機内での出来事だ。

目の前のモニターの画面が突然とまって英語のアナウンスが流れた。


これが噂に聞くドクター・コールってやつか。

知らねえよ、オレ英語は得意じゃないし。

聞こえないふりをしていたら、今度は日本語のアナウンスだ。


「お医者様もしくは医療従事者の方はおられますでしょうか?」


知らないって言ってんじゃん。

と、頭の中で思ったが、足の方が勝手に通路を歩きだした。


何やってんだ、馬鹿野郎!

そう足に怒鳴りつけようとしたら、口が勝手に乗務員に話しかけていた。


「私は医師ですが、何かお役に立つことがありますでしょうか?」


乗務員の顔がパッと明るくなった。


「どうぞこちらへ、ドクター」


そう言って機内後部へ案内された。

すれちがう乗務員たちがサッと道を開ける。



ゆかで腹をおさえて痛がっているのは日本人とおぼしき若い女性だった。


すでに浅黒い肌の男性が名乗りをあげていた。

聞けばパキスタン出身の家庭医だという。


「脳神経外科を専門としている日本人です、よろしく」

「患者は日本人らしいからうまく協力できそうだな」


オレたちは握手した。


パキスタンの医師は飛行機に備えてあった医療機器を確認した。

気管挿管きかんそうかんからルート確保用の機器、緊急薬剤までズラリとそろっている。


「21歳の日本人女性で30分ほど前から腹痛が始まりました。特に既往歴やアレルギーはないとのことです」


メモを見ながら飛行機の乗務員が報告をする。

完璧な病歴聴取びょうれきちょうしゅだ、オレの出番があるのか?


sexually active性的活動が活発 かどうかいてくれ!」


パキスタン人医師から声がかかる。


ちょ、ちょっと待ってくれ。

子宮外妊娠の可能性を考えたら当然訊くべきことなんだけど。

日本語でどう尋ねたらいいわけ?


「大変申し訳ない質問ですが、ボーイフレンドがいて、その、しばしば……こといたしているというか」とか、頭の中で考えていたら先に妻に答えられてしまった。


「大丈夫、生理は昨日終わったばかりよ。 ectopic pregnacy子宮外妊娠 の可能性はないわ!」


なるほど、そういう答え方があったわけね。

いやはや、勉強になります。


「腹痛の原因だけど、お前はどう思う?」


どう思うって、オレは脳外科医だって言ってるじゃん。

時々は総合診療そうしんもやっているけど、それはヒ・ミ・ツ。


「左下腹部痛だから虫垂炎はないはずなんで……憩室炎けいしつえんとか」


まるで医学生みたいな答になってしまった。


「憩室炎って……そうかな?」


パキスタン先生はなんだか不満そうだった。


「なら、先生はどう思うんですか?」

「便秘か尿路結石にょうろけっせきじゃないか。危ない疾患ではなさそうだ」


そう言いながら乗務員に「緊急着陸の必要はない」と告げた。

乗務員たちはホッとした表情になり、1人が機長に報告に行く。


この時にさとったのは、オレたち医師に求められているのは緊急着陸が必要かどうかの判断だ。

誰も治療なんか期待していない。



とりあえずその場は解散となり、オレは自らの座席に戻った。

確かに子宮外妊娠か虫垂炎でなかったら便秘か尿路結石の確率が高いよな。

憩室炎けいしつえんというのも無いわけじゃないけど。

……みたいな事を考えていたら、いつの間にか目的地に着いた。


待機していた救急隊が機内に入ってくる。

病人が最優先だ。


それから一般客に混じってオレたち夫婦も通路をゴソゴソと移動した。

機内の乗務員たちが次々にアイコンタクトで感謝の意を伝えてくる。

彼らのまなざしの中にあるのは純粋な敬意と感謝だ。


欧米諸国では日本より遥かに医師の地位が高い。

それだけ期待される立場であり、医師はその期待に応えるべき存在でもある。



後日、知り合いのイギリス人医師にこのドクター・コールの話をした。

こういう時に名乗り出るのか、と尋ねたら「Why not ?当然だろ」の一言で片づけられた。


ちなみに彼は医学生時代にドクター・コールに応じたそうだ。

その覚悟のある者だけが医学部に入るってことかもしれないな。

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