第244話 フェード現象を経験した男

 最近のニュースで観光バスの横転事故というのがあった。

 長い下り坂でブレーキがフェード現象を起こして利かなくなってしまったらしい。


 実はオレもフェード現象を経験したことがある。

 公道ではなく、サーキットでの話だけど。


 若い頃、時々サーキットで走っていたことは前にも話した。

 初めて走る前日は「明日の夜、オレはこの世にいるのだろうか?」と自問自答したことを憶えている。


 目指すサーキットは2つ隣の県。

 だから3時間かかって到着したときには、もう車の運転はしたくなかった。

 それでも初めてコースに乗り入れた時の興奮は今でも覚えている。


 が、その興奮はすぐに恐怖に変わった。

 3速全開からアクセルの戻しだけで回る右コーナーは冷や汗びっしょり。


 そしてストレートの先の右コーナー。

 教科書にはコース左側の看板を目印にブレーキングしろ、とある。

 が、どうしてもかなり手前でブレーキを踏んでしまう。


 そうこうしているうちにルームミラーに他の車がチラチラ見えてくる。

 全力で走っているのにどんどん背後に迫ってきた。


 左のヘアピンでスピードを落としつつ進入したのにスピンしてしまう。

 あわや後ろの車が追突か、と思ったがあっさりかわしてくれた。

 速いだけでなく上手い人だったみたい。


 結局、この左ヘアピンがオレには鬼門で、その日だけで5回スピンした。


 で、ようやくピットに戻ったと思ったらブレーキが効かない!

 スコン、と床まで抜けてしまった感触だ。

 サイドブレーキも同じように抜けてしまっている。


 これ、一体どうやって車を停めたらいいわけ?

 が、幸いなことにエンジンを切ってギアを入れると停まっている。

 いわゆるエンジンブレーキってやつだ。


 どうやらフェード現象とべーパーロック現象が原因らしかった。


 フェード現象はブレーキパッドの過熱で摩擦力が落ちてしまうこと。

 べーパーロック現象も過熱によるブレーキフルードの沸騰で起こる。

 やはりサーキットでの全力走行は市販車には過酷だったようだ。


 オレが愛車の横に立って途方に暮れていると助け舟が現れた。

 なんと同じサーキットを走っていた暴走族の兄ちゃんたちだ。

 正確にはルーレット族とかドリフト族とかいうらしい。


「これ、エア噛んじゃってますね」


 そう言いながら車の底のネジの一部を緩めてエアを抜いてくれた。

 いささか利きの甘いブレーキではあったが、何とか無事に帰宅。

 兄ちゃんたちにはいくら感謝してもしきれない。


 もちろん、オレは各コーナーの進入時にはヒール・アンド・トウで常にエンジンブレーキを利かせていた。

 それでもフェード現象やべーパーロック現象が起こるのが現実だ。


 後日、ブレーキパッドはフェロードに変更した。

 ブレーキフルードも沸点の高いドット5に交換。

 そしてサーキットでは10周走る毎に短時間休憩するようにした。

 お蔭でブレーキは機嫌良く利いている。


 今回の観光バスが通過した長い下り坂のような所ではできるだけブレーキの負担を減らさなくてはならない。

 そのためにはギアを落としてエンジンブレーキを活用する必要がある。

 バスのドライバーはフットブレーキだけに頼りすぎたのでは、と思う。



 よく車の性能は「走る、曲がる、停まる」と言われる。

 この中で最も大切なのは、間違いなく「停まる」だ。


 ブレーキがすっこ抜けてしまった恐怖の経験は思い出したくもない。


 これを読んでいる人達がサーキットを走ることは無いかもしれないが、長い下り坂にはくれぐれも注意して欲しい。


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