第234話 空が青く見えなくなった男 1
明日の夜、オレはこの世にいるんだろうか?
そう思ったことがこれまでの人生に何度かある。
うち1つは研修医の尻ぬぐいだ。
その昔。
研修医の不始末で教育研修部長が患者の所に謝罪に行くことになった。
なぜかオレも「同行してやってくれ」と病院のエライ人に言われた。
もちろん勤務医とて天下のサラリーマンだ。
"No." はない。
一体何があったのかとカルテを読んでみた。
ある夜のこと。
救急外来に1人の若者が搬入された。
蕁麻疹、呼吸困難、吐き気、そして冷や汗。
血圧は80/50とかそんなもんだ。
クリニックで出された薬をのんだ途端に起こったらしい。
典型的なアナフィラキシーショック。
当直の研修医は即座にアドレナリンの筋注を行った。
それと同時にルートをとり、ステロイド、H1ブロッカー、H2ブロッカーを投与する。
徐々に患者の症状が緩和された。
ここまでは良かった。
もう大丈夫、ということで帰宅するに際し、患者から代わりの薬を処方するよう頼まれた。
そこで研修医が出したのが名前だけ別の同じ薬だった。
だから、間違うのも無理はない……
って、間違うなよ!
第一、帰宅させたらダメじゃないか。
アナフィラキシーってのは一定の確率で第2波が来るんだ。
入院させて翌朝まで経過観察ってのが定石なのに。
それはともかく。
自宅に戻った患者は早速、研修医に処方された薬をのんだ。
当然のことながら、再び蕁麻疹と呼吸困難に襲われた。
他の病院に搬入されて初めて、違う名前の同じ薬を出されたことに気づいた。
当然、病院にクレームがつけられる。
本人ではなく、ガラの悪い兄ちゃんが電話で怒鳴ってきた。
「この落とし前はどないつけてくれるんや。事務所まで謝りに来い!」
ということで研修医の上司にあたる教育研修部長が患者相談室長とともに行くことになった。
教育研修部長は女性だし荷が重かろうということで、オレに付き添いの大役が回ってきたのだ。
行先は繁華街の外れにある看板の出ていない事務所なのだそうだ。
これ、生きて帰って来れるのか!
3人まとめて死体になって裏山に捨てられるってこともあるんじゃないか?
そう思ったオレは面会場所を事務所からホテルのコーヒーハウスに変更してもらった。
人目のある所なら最悪の事だけは避けられる、はず。
患者相談室長によれば、患者の兄を名乗る男はかなり危なそうな人間らしい。
ひょっとして兄ではなくて兄貴分ってやつなのだろうか。
その日が近づくに連れてオレは憂鬱になってきた。
もはや青空が青く見えない。
あらかじめ面会場所となるホテルを下見した。
周囲の地理を頭に叩き込み、最寄りの交番の位置も確認した。
もし友好的な話し合いにならず走って逃げるなら交番まで約300メートル。
途中の植え込みの陰に木刀か何かを隠しておくことにした。
相手に大怪我をさせて刑務所に行くことになるかもしれないが、殺されるよりはずっとマシだ。
向こうは患者と兄貴分だけでなく何人も来るかもしれない。
それとも、「場所は変更だ、この車に乗れ」と
考えれば考えるほど悪い事を想像してしまう。
ついに苦しくなったオレは妻に打ち明けた。
「実は〇月〇日、△△ホテルで怖い人たちに会うことになって」
妻には
そういう時はタクシー代を払ってでも病院まで来てもらうもんだ、と。
「今さら場所は変更できない。万一オレが帰ってこなかったらコイツが犯人だから」
そう言って、患者の名前と住所を書いた紙を渡した。
「もし、オレが落雷で死んだとしてもコイツのせいだ」
「何それ? 雷だったら関係ないでしょ!」
「映画『ゴッドファーザー』のセリフだけどな」
たしかドン・コルレオーネが言っていた。
今になって彼の気持ちがよく分かる。
「冗談はやめてよ。私が先にそのホテルに行っておいてあげようか?」
「いや、そこまではしてもらわなくていい。何かあったら
「分かったわ」
というやり取りの後に当日を迎えた。
ホテルに向かう車の中は重苦しい空気だった。
誰も何もしゃべらない。
病院の専属運転手が尋ねる。
「先生方が話をしている間、私はホテルの駐車場で待っていたらいいんですかね?」
オレは思わず言った。
「いや、コーヒーハウスの見えるロビーに居てくれませんか。何かあったら警察に電話してください」
「えっと、どういうタイミングで電話したらいいのでしょうか?」
「僕が左手で電話をかけるジェスチャーをするので、それを見たら迷わず電話してください」
「分かりました」
こうなったら利用できるものは全て利用する。
ホテルのロビーで待つこと10数分。
「もしや今日はすっぽかされたのか、それならラッキー」と思っていたら、いかつい男性2人組がやってきた。
室長がペコペコと挨拶する。
オレたち5人はそのままコーヒーハウスに入った。
運転手はロビーの目立たないところに立っている。
オレたちは3人並んで壁際に座らされた。
「どういうつもりやねん、コラッ!」
「すみません」
「また同じような事が起こったらどないしてくれんねん!」
どうみても人を脅しなれている口調だ。
「大丈夫です……大丈夫だと、思います」
そう教育研修部長が言った。
声が震えているのが、こちらにも伝わってくる。
誰も近寄らないと思っていたら、ようやくウェイトレスが注文を取りに来てくれた。
それぞれにアイス・コーヒーを注文する中、室長だけがホット・コーヒーだ。
何やってんだ。
万一、それを投げつけられたら怪我だけでなく熱傷まで治療しなくちゃならないじゃないか!
余計な仕事を増やすなよ。
「ほんまに大丈夫なんやろな」
「えっ、ええ」
部長がそう言ったがオレは反対だ。
「いや、大丈夫とはいえませんね」
オレがそう言うと全員が驚いた顔でオレをみる。
考えに考え抜いたセリフを告げた瞬間だった。
(次話につづく)
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