第190話 雛壇にあがってしまった男

世の中広しといえども、本職以外で裁判官の席に座る羽目になった人間もそう沢山はいないだろう。

ところが、オレは座ってしまった。

左陪席の所に。



事の発端はこうだ。


ある日、オレは地方裁判所に出かけていた。

専門委員としてラウンドテーブルに出席するためだ。

ある男性が会社の上司に殴られて高次脳機能障害になってしまったと訴えたのだ。


殴った上司の方は刑事裁判ですでに有罪になっている。

今回は民事の方で、脳に障害が残ったから賠償せよ、というのが原告の言い分だ。


原告、被告双方の代理人と裁判所、オレとの間で話し合いがもたれた。


「次回の証人尋問には先生も出席して、我々とともに尋問をお願いします」


突然、裁判長に言われて仰天した。


「我々とともに」って、それ、裁判長の隣に座って、ということですか!

あの黒い服は貸してもらえるのでしょうか?


反射的に「はい」と答えつつ、オレの頭は大混乱だ。


先の2つの疑問に答えておこう。


裁判長の隣に座って? 

イエス。


黒い服を貸してもらえるのか? 

ノー、黒っぽいスーツで出席した。



当日、法廷には裏から入ることになる。

結構長い階段をのぼって、あの高い席に座った。


いざ開廷!


被害者に対する主尋問、反対尋問につづいて裁判所からの補充尋問がある。

裁判長からの短い尋問の後に、オレに順番が回ってきた。

尋問などというのは人生で初の経験だ。


以下、全てオレが証言台の被害者に尋ねたことだ。


「日常生活で具合の悪いことには、どんなことがありますか?」

「事件以来、食べ物の好みが変わったという自覚はありますか?」

「仕事で色々な種類の車を運転してあちこちに行くということですが、道に迷ったりしませんか?」

「ナビゲーターがあるといっても、車によって操作が違うと思うのですが、困ったりしませんか?」

「テレビなどで悲しい場面を見て大泣きしてしまうことはありませんか?」

「逆に、ただの親父ギャグに大笑いしてしまうことはありませんか?」


一旦、尋問を始めてしまうと、尋ねることは山ほどある。


というか、もはや尋問ではなくて診察だ。

これまでに何千回、何万回とやってきたことが自然に出てしまった。


一方、加害者に対する尋問はあっさりしたものになってしまった。

部下を殴る蹴るなどというのはとんでもない話だ。

だから説教してやりたいと思うのが普通の人の発想だろう。

でも、加害者のクズっぷりは裁判の結果に何の影響も及ぼさない。

だから、裁判長同様、オレも加害者には全く興味を持つことができなかった。



というわけで、人生初の、おそらくは最後の経験をなんとか終えた。


後日、知り合いの弁護士との雑談中にこの話をしたところ、さすがに驚かれた。


「先生は、ついに雛壇にあがってしまったんですか!」と。

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