第137話 言動のおかしい女

近くの老健施設ろうけんから相談があった。

頭部CTを見てほしい、というものだ。


実は入所している高齢女性の言動が1ヶ月ほど前からおかしくなったのだとか。

それで頭部CTを撮影したところ「脳室拡大あり」という所見がついてきた。

で、老健施設の医師がCTを持って来院したのだ。


こういった話をしても絵が浮かばない人が多いと思うのでちょっと背景を説明しておく。


老健というのは正式名称を介護老人保健施設という。

病院での入院治療が終わったものの自宅に帰るのはまだ早い、もう少し元気になってから、という高齢者が入所する。

だから介護施設であり、医療施設ではない。


医師が常駐していて、ちょっとした点滴程度は可能だが、それ以上の治療や検査はできない。

だから、今回の高齢女性も近くの医療機関で頭部CTを撮影してもらった。

さらに撮影した医療機関の放射線科医が読影して「脳室拡大だ」ということになった。


脳室拡大についても少し説明する。


人間の脳は髄液という水に浮かんでいる。

この髄液が多すぎると脳室に水がたまり、いわゆる水頭症と診断される。

高齢者の水頭症は歩行障害、失禁、認知症などの原因になる。


それなら、この高齢女性は水頭症が発生して脳室が拡大したから認知症になって言動がおかしくなったのか。

水頭症に対して脳室腹腔短絡術などのシャント手術をすれば症状は改善するのか?


おそらく違うだろう。

なぜなら高齢者の水頭症の発症はそんなに急ではない。

1年とか2年かかって徐々に悪化するのが普通だ。


さらに言えば、脳室拡大はあるが、水頭症ではなさそうだ。

高齢者の脳は萎縮しているので、一見、脳室が大きく見えているだけじゃないか。

オレはそう思った。


では、なんでまた言動がおかしくなり、譫妄せんもうという状態になってしまったのか?

実は高齢者の譫妄の最も多い原因は感染症だ。

つまり肺炎や尿路感染が譫妄という形で現れるのだ。


若い人なら発熱、咳、痰があって肺炎と診断される。

あるいは、頻尿や尿の混濁、時には発熱があって尿路感染症と診断される。


しかし、高齢者は熱も出ないし訴えも少ない。

知らないうちに発症し、食欲がなくなったり元気がなくなったり。


時には言っていることがおかしくなったり、叫んだりすることもある。

これがいわゆる譫妄だ。


ここで抗精神病薬とか抗不安薬などを使うと余計にわけがわからなくなる。

むしろ抗菌薬で感染症を治療し、全身状態を安定化させれば自然に治るはず。


オレは自分の意見を老健の医師に伝えた。

もう一度記録を確認してみます、と言って医師は帰った。


今朝、その医師からメールが来ていた。


記録を読み返したところ、言動がおかしくなり始めたころに頻回のナースコールと排尿の訴えがあった、と。

発熱はなかったが今になってみれば尿路感染症だったのかもしれません、とあった。

近くの病院での入院加療をお願いし全身状態の改善を図ります、と結ばれていた。


この患者が回復してくれれば老健の医師も嬉しいだろうがオレも嬉しい。

なんせ自分の考えが正しかったことが証明されるのだから。


患者、老健医師、オレの三者全員がウィン、ウィン、ウィンだ。


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