第89話 勘違いで受験勉強する男

医師になってから、進路指導の一環として母校で授業をするというのがあった。

高校時代の恩師に頼まれたのだ。


オレは自分の思うところを高校生たちに正直に述べた。


「医師になるのに高いこころざしはあってもいいけど、別になくてもいいです」


恩師にはちょっと困った顔をされた。



そこで、オレは高校生たちに自分の経験を述べた。

ある民間病院に勤務していた時のことだ。


夜間の救急外来当直中に栄元えいもと先生が眼球外傷の症例を受けてしまったのだ。

打ち上げ花火に右眼を直撃された若い女性だ。


栄元えいもと先生はオレよりちょっと年下の穏やかな人だった。

医療者のあるべき姿について勉強会を開いているような立派な人だ。

当然、高い志をもって医師になったのだろう。


でも、眼科のない病院に眼球外傷が搬入されてはどうしようもない。

栄元えいもと先生は顔面蒼白で立ちくすばかりだった。


そこにやってきたのが医学部でオレの同級生だった備東びとう

こいつの事は学生時代から良く知っているが、志のカケラもない。

女にモテようと思って医学部受験を頑張った、という典型的な馬鹿だ。


病棟当直をしていた備東びとうが、たまたま救急外来に降りてきたのだ。


「一旦引き受けた以上、何とか決着をつけないとな」


備東びとうにそう言われたが、栄元先生は黙ったままだ。

そもそも夜間に手術のできる眼科は滅多にない。


「草の根分けてでも転送先を探し出すしかないだろ!」

「……」


栄元先生はなおも沈黙。


「もういい、俺が電話する! というか、お前も見てないで手伝え」


部屋の隅で気配を消していたオレだが、ちゃんと備東に見つかっていた。



オレたちは手分けして大学病院や救命センターに電話をかけ始めた。

30分後、ようやく対応可能な医療機関がみつかった。


「本当にありがとうございました!」


そう患者に言われた備東は答えた。


「あやうく隣の県まで探すところでした。近くで良かったですね」


栄元先生は唇を嚙んでいた。

自分の不甲斐ふがいなさが悔しかったのかもしれない。



ここで問題だ。


志のある栄元先生と志のない備東。

自分が患者ならどっちにてもらいたいのか?


今回の事であれば答えは明白だ。

誰だって備東を選ぶだろう。


しかし、栄元先生が得意で備東が苦手なことも沢山あるはずだ。

その場合は栄元先生の方がいい。


結局、志が有ろうが無かろうが、試練は向こうからやってくる。

その時にどう対処し、どう決着をつけるか。

問われるのは、その覚悟があるか否かだ。



そう締めくくったオレは静まり返った教室を見回して尋ねた。


「何か質問はあるかな?」


1人の男子生徒がおずおずと手を上げた。


「先生、本当に医学部に行ったらモテますか?」


やれやれ、ここにも馬鹿がいたのか。

もう適当に答えておいてやれ。


「当たり前だろ。どんな岩石みたいな顔の奴でもモテモテだよ」


その瞬間、教室には歓声が響きわたった。


「うおおおお!」

「俺、医学部に行く。絶対に行くぞー!」


嗚呼ああ、世に馬鹿の種は尽きまじ。

そうんだのは、石川啄木だったか石川五右衛門だったか。


オレはもう情けない。


まあ勘違かんちがいで受験勉強を頑張るのも悪くないのかもしれないな。

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