第85話 医学生に教育をする男

以前、医学部の学生に対する教育はもっぱら大学病院で行われていた。

最近は市中病院でも行われる。

今日来ている男子学生も1週間、ウチで実習することになっていた。


学生には色々と学んでもらわなくてはならない。

手術室に行くと、術者が電子カルテの画像の前で説明を行っていた。

熱の入ってきた術者は、図を描き始める。


「腫瘍がここにあるとするだろ。顔面神経と聴神経はこちら側な」


そういって丸い腫瘍の尾側びそくに2本の線が引かれる。


「三叉神経はこっちにあるからな」


今度は頭側とうそくに1本の線が付け加えられる。


「ちょっと待った。三叉神経も尾側じゃないのか」


オレは口を挟んだ。


「これはCISSシスの白黒反転画像かな。ここにあるのが三叉神経だと思うけど」


そう言って画像の1点を指さす。


「えっ? そうかも……しれませんね」

「ということは、腫瘍の手前に三叉神経が出てくるはずだよ」

「そうだったら、かなり気が楽になります」


オレたちは学生そっちのけで議論に熱中した。


「この腫瘍はテントじゃなくて錐体面すいたいめんから出たんだろう。もしテントからだったら脳血管造影で後大脳動脈PCA上小脳動脈SCAの間がもっと開くはずだからな」

「それは僕もそう思っていました」

「あと、脳幹に近いから腫瘍とくも膜の間じゃなくて、腫瘍の被膜内ひまくない剥離はくりした方がいいんじゃないかな」

「できればそうしたいところですが、実際に腫瘍を見ない事には分からないですね」


ふと、横に医学生が立っているのに気づいた。

そうそう、教育もしなくてはならない。

確か彼は脳外科志望だったし。


「いいか。手術の目的には優先順位がある」

「はい」

「まず、神経学的欠損症状デフィシットを出さないこと。次に三叉神経痛を改善させること。そしてできるだけ多くの腫瘍をとることだ」

「デフィシットというのは?」

「後遺症と言った方が分かりやすいかな。腫瘍は取ったけど寝たきりになりました、では話にならんだろ」



オレは理詰めの手術をすると言われる。

後遺症を出してはならない、と思う手術前の恐怖から、すべてを言語化しないと気がすまないからだ。

だから手術手順の議論をするときに理屈っぽく聞こえるのだろう。


天性の脳外科医なら感覚でやってしまうのかもしれないが、オレは違う。

ひたすら恐怖と戦いながら言葉を武器にして手術にのぞむタイプだ。


「だからあらかじめ、頭の中で手術の段取りを考えておかないといけないんだ」

「なるほど」

「でも、長い脳外科人生の中では、起こってはならない事が起こってしまうわけ。手術後に患者さんが亡くなったり植物状態になったりとか」

「訴えられたりするのですか?」

「確かにそれもある」


訴えられるよりもっと深刻な事。


自分はこの仕事を続けていけるのか、と悩むことだ。


もう脳外科をやめてしまって楽になろうと思う人。

罪悪感にさいなまれながらも続ける人。

患者がどうなっても何も感じない人。


色々だ。


実際、自責じせきの念にかられて脳外科をやめた人間は大勢いる。

オレはその決断を尊重したい。

ほかにやるべき価値のある仕事は沢山ある。


患者にひどい後遺症が残っても平気な人間もいる。

必ずしもオレは否定しない。

その経験を踏まえてどんどん上達し「神の手」になれば正当化される。

実際のところ、自分が手術されるならそういう人にしてもらいたい。



「先生、今日はよろしくお願いします」


考え込んでいたオレに術者が声をかけてきた。


「よっしゃ、今日も苦楽くらくをともにしようぜ!」


6時間以上かかる手術のスタートだ。


お互いに励まし合う仲間がいればこそ、この仕事を続けていけるのかもしれない。

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