第24話 怒鳴って帰った男

 どこの医療機関でも符牒ふちょうがあると思う。

 要するに内々だけで通じる暗号だ。


 ウチでは「応注おうちゅう」というのがある。


 外来診療していると、電子カルテの備考欄に「応注」と書かれていることがある。

 これは対応注意という意味だ。


 ある日、「応注」と書かれている患者がいた。

 こりゃ注意しなきゃな、と思っていたら、10分後に「怒ってます」に変わっていた。

 何のことやら分からない。

 前の担当医からオレが引き継いでオレが初めてみる患者だ。


「この病院はいつまで待たせるんだ!」

「いやあ、今が9時17分だから待たせていませんけど」


 70歳くらいの男性だ。

 いきなり事実無根な事を言われたので、オレは訂正した。


「前の先生は9時に来るように言ってたんだ」

「病院のルールでは9時予約の人は9時から9時半の間に診ますよ、となっているんですけど」

「でも前の先生はそんな事は言ってなかった」


 病院のルールとは別にこの患者のルールがあるらしい。

 9時予約であったら9時キッカリに診なくてはならないそうだ。


「うーん、病院ってのは何事も時間通りにはいかないものでして」

「でも9時の予約なんだから。前の先生は9時に来いって」


 前の先生というのは非常勤医だ。

 急な事情で来なくなった。

 だからオレが引き継いだのだが、約束までは引き継いでいない。


「そもそも急患対応をしていたんで、9時に診れないこともあるんですよ」


 急患を手早く済ませて予約時間内に呼んだのだ。

 それを許容できないのであれば他の医療機関にかかるべきだろう。


「二度と来るか!」


 そう怒鳴って患者は帰った。

 正直、ホッとする。


 ひょっとして脳に何か悪いものができているのかもしれない。

 それで怒りを抑える機能に支障をきたした、とか。



 本日、久しぶりに電子カルテでその患者の名前を見たので思い出した。

 一瞬ドキッとするが、受診したのは眼科みたいだ。

 今度は1時間待たされた、といって怒っているらしい。


 オレだって他の医療機関を受診するときには年休を取っておく。

 当然、1日仕事になるものと思っている。

 待たされるのが1時間なら早い方だ。



 それにしても色んな事があるもんだ。

 いや、世の中には様々な人がいる、というべきだな。


 自分が老いた時に、すぐ怒鳴る人間にだけはなるまい。

 人の振り見て我が振り直せ、改めてそう思った。

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