第1話 平静
自宅から徒歩五分、その建物は閑静な住宅街の奥にひっそりと佇んでいる。
複雑に入り組んだ細い裏道を体感カクカクと円を描くようにぐるりと回った、その突き当たり。
そこで彼は「もう十年は使われていません。人の出入りもありません」とばかりにくたびれた陰気な顔でこちらを見下ろし、路地裏の僅かに湿った冷たい空気に似合ってじっとりと影に馴染んでいた。
アルミのシャッターとコンクリート壁の表面に好き放題錆とドクダミの蔓を這い回らせたその姿が、建てられてから過ぎ去った時を雄弁に語っている。
そのガレージは如何にも廃屋、といった雰囲気でそこに静かに建っていて、私はそれらの風景を眺めながら、そっと天に視線を向けた。
周囲の家屋や背の低い雑居ビルなんかに囲まれて、この場所には光が差さない。
家屋の屋根や上に少し抜けたビルの壁面は淡くぼんやりと柔らかい光に浮かび上がっているが、影の降りた地表付近は暗く静かで、ひんやりとした空気が酷く心地良かった。
……ここからが、私の知らない場所だ。と私は静かに独りごちる。
……正確には、「私の知らない叔父さんの居た場所」だ。
*
新学期、授業一日目。そこかしこで新しい生活の希望に満ちた談話に花が咲いている。高校生になって大人の枠に片足を突っ込んだ同級生達も、きゃっきゃと笑い合う様にまだ子供の面影を残している。……そんな麗かな春……。
依織は登校早々、教室の扉を引く力加減を見事に誤った。ガァン、と横に吹き飛んでいった扉が派手な音を立てる。
やっちまった、と思うも時すでに遅し、教室内の視線がザッと一斉にこちらを向いた。
「…………おはよ」
三十二名総員の打ち合わせでもしたかのような完璧な振り返りに何となく気圧されて挨拶したが、そこに「おはよう」と返ってくる声は一つもない。まるで売れない芸人の舞台挨拶のよう。
これがお笑い芸人の心情か……。そう依織が個人的に感動しながらつかつか教室に立ち入ると、すぐに視線はツンと冷たげに各所に逸れた。
「ニュース見た?またミサイル」
「一限何だっけ」
「そんなことよりまたヴィラン出たんだって」
「なぁ斎森、お前の兄貴ってヒーローなんだろ!」
「やだヴィラン出たのこの辺?怖い、早くやっつけてくれると良いんだけど……」
消えた音がざわざわと蘇り、静まり返っていた教室が再び賑わいを取り戻す。黒板の真ん前、教壇に依織が立っても見向きする者はもう居なかった。
「ん、まぁな、そうだよ」
出席番号の書かれた用紙と実際の席を見比べながら自分の席を探せば、そこは左から二列目の、更に後ろから二番目。ラッキーだ。うたた寝してもバレにくいし比較的窓に近い。これなら直下ではないがクーラーの恩恵にも割りかししっかり与れそうだ。
「良いなあ〜、家ではどんな風?……な、今度会わせてくれよ」
「……いやいや。兄貴も忙しいから……」
そう満足した依織がから、と自身の椅子を引くと。
無理だよ、と言いかけた男子のぱっちりとしたアーモンド型の目とばちりと目が合った。
「…………
あ、隣か。
「あぁ
そう小さく目を見開いた依織を一瞥し、何とは言わないが、と暗に視線を送って囲いの男子の一人が笑うように言った。その言葉に斎森は一瞬だけこちらを向いて、すぐにそちらへ向き直る。
「本当だよなぁ」
窓際の桜が、はらはらと青空を流れている。清々しい晴天と桜吹雪はそれだけでも絶景で、更に四階からは遠くの富士山もよく見えると来たものだ。
窓から見える美しい一枚絵は、文句なしの雅やかな景観を誇っていた。
依織はその絵をぼうっと眺めて、写生でもしたいなぁと思っていた。
*
「それでは、授業を始めますよー」
入学式を終えて、登校一日目の時間割は古典の授業。
私はこの春から新しく高校生になった……とは言えこの学校は所謂中高一貫エスカレーター校。先程斎森に「お前の兄はヒーローなのか」と聞いた男子が居たように、外部進学生も居るには居たが、ガラッと生活が変わってこれから新生活!という雰囲気は全くない。
中学の頃と顔触れに殆ど代わり映えがない為、内部進学生は中学時代のクラス内好感度がそのまま持ち越される形となった。
窓際に座る女子の艶やかな黒髪に、花びらが栞のように差し込まれている。
確か地面に落ちる前に桜の花びらを獲れるとラッキー、だとか何だか聞いたことがあった……とその光景を目を細めてぼんやりと見つめていると、不意に老年の古典教師がカツカツと床を叩き鳴らして隣の教室へ入るのが見えた。
「な、カツオ教室間違えてね?」
丁度斎森も私と同じことに気付いたようで、そう笑いながら前の席の友人の肩を叩く。すると周りの男子もそれに同調するように「おーいカツ先教室間違えてんよー!!」とわざとらしく叫んだり、けらけらと笑ったりして愉しげに肩を揺らした。
……カツオ、と言うのはその老年の古典教師に中学生の頃男子が名付けた渾名だ。きびきびと歩き、足音をカツカツと鳴らす為どこに居るのかいつでもすぐに分かるから、カツオ。悪口とも取りづらく、うまく言ったもんだなと私は個人的に感心している。
「ああすいませんね、すいません。すぐに授業を始めましょう」
その古典教師はそう少しだけ焦ったような声をして、アイデンティティをしっかりと守りながらカツカツと音を立ててこちらへ向かって来る。音としてはしっかりと聞こえるものの、この絶妙に籠った舌の回らない滑舌の悪さも悪ガキ達に舐められる理由なんだろうな、と私は他人事に思いながら、古典教師がわたわたと名簿を取り出す様を遠巻きに眺めた。
「は、はい。それでは、自己紹介しましょうね。中学の方から進学してきた子が多いだろうから、あんまり必要ないかもしれないけど、一応、ね?」
すると左隣の斎森を中心とした男子グループが歓声を上げた。無論誰も彼の自己紹介を望む者などいない。なのにも関わらず、うーんクソガキ根性。盛り上げに余念がない。そう私が呆れ半分に感心していると、古典教師は少し照れながら甘噛みを挟み、自己紹介を終えた。
「で、では一応出席確認がてら名前を呼びますから、呼ばれた人は元気いっぱい、返事してくださいね」
はーい、と違う男女グループが答えると古典教師は満足そうに名簿に視線を移す。名前を呼ばれる度、教師の言った「元気いっぱい」とは限りなく無縁な脱力した返事が跳ね返り、古典教師は物静かに苦笑した。
「次、大山カズオさん」
そう名前を呼ばれた大山一雄は「あっ」という顔をしてぱく、と口を開いた。
「センセ、カズタカです‼︎」
だが大山一雄がそれを口にする前に後ろから男子の声が飛び、それを制した。すると大山は後ろを振り返って顔を見合わせ、その男子とけたけたと笑い合う。
……この古典教師は、昔からそうなのだ。
第一印象が大事とはまさにこのことだろうか。何度訂正してもあまりに覚えないものだから中学の時は二年半ばから諦めて、大山もカズオを甘んじて受け入れていたくらいだ。年配であるのも含めての話だろうが、それ程この教師の記憶力は酷いものだった。と、春休み越しに見た教師の姿を思い返してくすりと笑うと、彼が気を取り直したように名簿を持ち直したのが見えた。
「えー、次」
ナツヤマイオリさん。
そう教師が口にした瞬間、教室がさっと凍り付く。沈黙が落ち、それから冷めた紅茶に波紋の広がるような、秘めやかな黙殺が教室に広がった。
「…………カヤマです」
間違いを正せば、後ろでほっと胸を撫で下ろすような気配がした。
後ろの彼はきっと外部新学生だろう。
言い間違った当の本人はああ、ああごめんね、カヤマさん、と空気の読めないいつもの調子で言い直し、さっと後の生徒の出席確認に進んだ。
すると少しだけぎこちなかった空気が徐々に正常化し、二、三人も進めば再びゆるりゆるりと平時の如く流れ出して行く。
…………やば、眠。そう差し込む春の陽気に堪え兼ねて、くぁ、と大口を開けて欠伸をすると、その時丁度斎森がこちらを見ていた。
*
そんな穏やかな一時間目を終えて、二時間目、三時間目、四時間目と時間は一足飛びに過ぎ去った。時間が過ぎるのは、早いものだ……と、言うより私が一時間目後半から睡魔に敗北し、完全に寝過ごした。
一学期一日目から一ミリも授業を受けずに爆睡は印象が悪いのでやるまいと思っていたのに、三時間ぶっ通しで寝過ごせる自身の睡眠の才能が憎い。
どれもこれも春のせいだ、この心地良く暖かな陽気が悪いのだ……と誰に言うでもない言い訳を放ちながら目を擦れば、斎森が「なあ」と声をかけてきた。
「これ」
違う?と無愛想に差し出されたのは、私の使っていた消しゴムカバーのない剥き身の消しゴム。
寝ている間にどうやら肘で突くなりでもして机から叩き落としてしまったらしい……意外に拾ってくれるのか……それとも落とし主がまさか私とは思わず拾ってしまったのか。
どちらとも分からないが、私は「ん、私の。ありがとう」とやはり目を擦りながら答え、その手に触れないよう気を遣って指先で消しゴムを摘んだ。
「夏山ぁ、寝んなよ」
「マジでアイツ嫌、学校来んなよ気まず〜」
すると背後からひそひそとそんな女子の声が聞こえ、けらけらと笑い声が響いた。
ピンク色に艶めくリップがストローを平らかに潰し、中身のないミックスジュースのパックがべこ、とへこんだ。くるんと柔らかに上を向いた睫毛にすんでで中身の見えそうな短いスカート。その目にも痛い鮮やかな姿、彼女らはまるで毒蝶だ。美しいのに、見れば見る程毒々しい。
そう彼女らの姿を眺めていると、不意にカコン、と私の頭部をミックスジュースのパックが直撃し、ひっくり返って跳ねては私の足元に落ちた。
「それ、余り飲んでも良いから捨てといてよ」
そうにやにやと……誰だったか。失礼。
馴染みのある顔立ちとメイクではあるのだが、どうにも名前が思い出せない……ので、ただ今を以て彼女を女子Aとする。
女子Aはそうにやにやと親指で地面に落ちたミックスジュースの空箱を指し、私に捨てるよう命令した。
……パイン、オレンジ、ピンクグレープフルーツ、ゴールデンキウイ。その倒れた空箱の表には瑞々しい果物が所狭しと並び、ストローからははたはたと山吹色のとろみのある液体が滴り落ちている。
「ねぇもう中身ないじゃんそれでホントに口付けられたらどうすんの?
「え〜、施し的な?」
「何それ意味分かんない‼︎」
すると女子Aに連れ添う女子Bがきゃはきゃはと笑いながらそう言い、「意味分かんない‼︎」と言ったのとは相反してそれに追随するように飲んでいたアーモンドミルクのパックを私の方へ放った。
びちゃ、と肩に嫌な感覚があった。
恐らく当たった衝撃で中身が漏れ出したのだろう。そう溜息を吐けば、それにはアーモンドミルクを浴びたワイシャツがひやりと右肩に張り付くことで応えた。
「ちょっと〜‼︎まだ飲み終わってないんじゃん‼︎」
「いやごめんごめんマジで飲み終わったと思ってたの、本当〜‼︎アハハ周りそんな飛んでないから良いでしょ〜?夏山片しといて‼︎」
そう欠片も悪いと思った気配なく女子Bは始末を私に押し付け、女子Aもポーズだけは女子Bを責めるようにしながらその声は明らかに笑っていた。ズゴ、とそのすぐ左横でストローが音を立てる。
「行こ」
これまで何一つ発しなかった女子Cが空になったジュースのパックを手に持ってそう言った。
すると女子Aが捨ててかなくて良いのぉ?にやついた顔で暗に「捨てること」を急かした。
「…………」
すると女子Cは女子Aと女子B、それから私の顔を一瞬……注意深く見ていなければ気付かない程の一瞬の間だけ見比べて。
「そりゃね」
捨てるよ、とジュースのパックを放った。
遅れてカコン、と肩を通り過ぎて丁度目の前にジュースの空箱が落ちる。
確か彼女は、バスケ部だったか……いやソフトテニス部かもしれない。彼女は昨年の体育の授業では運動にかけては凄まじい万能ぶりを遺憾無く発揮し、三学年の得点王を務めていたはずだ。名前こそは覚えていないが、同級生の中で特に肉付きが良いすらりとした体付きのこの存在感と、彼女が味方に居るとゲームが勝手にするすると進んで非常に楽だったことだけは覚えている。確か、彼女がシュートを外した姿は一、二回しか見たことがなかったような。
そんなことを思い返していると、ぽす、と頭に何かが飛び乗った。一体何かと摘み上げれば、それは掃除用具用ロッカーの底に落ちていた雑巾。
毒蝶達はそれを最後に行こ行こ、とひらひらと飛んで行った。
私は持参していたビニール袋にパックのジュース達を適当に突っ込むと、アーモンドミルクのかかった肩をぽんぽんとハンカチで叩いた。肌着までびっしょり濡れていて、非常に気持ちが悪い……。そんなことを考えながら床に飛び散った水滴を雑巾で拭っていると、背中にふと視線を感じた。
昼休みの教室は、和やかに時間が流れている。クラスメイト達は椅子を寄せ合ってわあわあと話し合い、時折どっと笑い声が起こった。
そしてそのBGMは、この昼休みの間一度として途切れていない。
本日もいつも通りに平和な日。平常平穏。誰も私を助けようと言う気概はなく、大多数が私を視界にすら入れようとしないのがいつもと何ら変わりがないことの証左。向いていた気のする視線は振り返ればふっと逸らされ、最早誰のものだったのかも分からない。
溜息は喧騒に紛れ消える。
さて、ここまで一般的な女子高生の生活として、異常ナシ。……ここまでは平凡、である。
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