職業、ヴィラン。
刻壁(遊)
序
プロローグ
私の夢は、ヒーローだった。
……緑色の液体の中で、こぽこぽと泡が立っている。ガラス越しに見えた研究員の顔は、それはそれは晴々として見えた。
*
…………錆びた拡声器がガァガァと鳴いている。
五十年前に建ったという古錆びたその遊園地は、酷く閑散としていた。
園の目玉の大きなメリーゴーランドはとうの昔に閉鎖され、屋台の一つも出ていない。ジェットコースターなんて以ての外。乗り物は一つも動いておらず、やれることは近所の空き地とそう変わらない。精々空き地と違うところと言えば、広場の小劇場。小さな野外ステージで開かれている、ヒーローショーがあることぐらいだった。
*
こうも暑いと思い出す。
20××年、三月一日。奇しくも姪の誕生日……地球に突如巨大な隕石が飛来した。
緊急速報が鳴り響いたのは、残り一時間二十四分。
まもなく隕石が大気圏に突入しようとしていた時だった。
街中で一斉にアラートが鳴り響き、ビルの壁面に掲げられたモニターもジャックされたかのように一斉に緊急ニュースに塗り替えられる。
次に見えたニュースキャスターの顔は酷く青褪めていた。それでも彼女は自身の責務を全うすべく、はっきりとした声で、しかし言葉尻の小さく震えた声で告げた。
『あと一時間二十四分で、地球に隕石が降ってきます』
画面左上に表示されていた、赤文字のカウントダウンが24から23へと切り替わった。
『外に居る方も、家に居る方も、各駅に設置された、防災シェルターへ避難してください。繰り返します、外に居る方も家に居る方も、各駅に設置された防災シェルターへ避難してください。』
キャスターの視線が動く。
画面外から何かの書かれた紙を受け取り、キャスターはそれを間もなく読み始めた。
『えー、ここで最新情報です。隕石はまもなく地球に激突します。米観測施設によりますと、予想される隕石の着地地点は……。』
キャスターの表情が、凍り付いた。不自然な沈黙が流れる。
画面の外側から怒声が飛んだ。異様に大きく見開かれた目が、ぎょろりと動いた。
それからキャスターは『失礼しました。』と小さく謝罪を挟み、もう一度繰り返す。
『最新情報です。米観測施設によりますと、予想される隕石の着地地点は、』
『日本です』
渋谷に混乱が巻き起こった。
告げられた言葉をいち早く理解した者達が、わっと駅の地下にある避難シェルターめがけて転ぶように走り出す。遅れて、恐怖が確実に伝播した。
大きな人の波がそのまた下にいる人々を呑み込みながら、押し合いへし合いその流れに巻き込まれながら強引に駅へと押し流されていく。
「これ」に呑み込まれてはいけない。
そう咄嗟に判断し、一段高くなった花壇に飛び込み街路樹の影に隠れた。
これはさながら、災害だ。押し寄せた人の波に人が潰され、運が悪く転倒したり悪気なくも押されたりして波に乗り切れなかったものが下敷きになって、どんどん死んで行く。
人の群れが、満員電車なんて比にならないほどぎゅうぎゅうに列ともならぬ集団を成している。
我先にと人々が身体を押し込み競り合い、あまりの密集具合に息ができないのか誰もが斜めに上を向いて、餌を与えられた鯉のようにぱくぱくと口を動かしていた。その間抜けさすらも、笑えない。
ぎゃんぎゃんと誰かが吠え、また、反響して誰かが吠える。常の街の騒がしさと限りなく乖離した動騒が、どっどっど、と忙しなく動く心臓の後押しをしていた。
その現実味のない地獄じみた光景に、額に汗をかく。これは降り注ぐ、人間にはどうしようもない途方もなく大きな災害から逃げようという波であるのに、同時にこの波が大きな災禍となっている。呑み込まれたら死ぬのに、呑み込まれなくても死ぬ。足がもつれれば、或いは立ち止まれば、動き続ける波に攫われて、海底に沈む。
「はは、」
理不尽だと思った。あまりの理不尽さに、掠れた笑い声が漏れる。朝の混み合ったホームより、ずっともっとごちゃごちゃとして煩い。ホームでかけた電話の声が届かないように、自分の笑い声すら聞こえなかった。
街路樹の影から、また同じように留まっている人の姿を見た。スーツを着て、鞄を持ったサラリーマンが耳に寄せたスマートフォンに大きく口を開けて叫んでいる。サラリーマンは、腕時計をちらりと見てから駅とは反対方向をしきりに気にして振り返っていた。
成る程。
流石は社畜大国。ワーカホリック万歳。
この彼は、この緊急時でさえ遅刻連絡かはたまた欠勤連絡をしようとしていて、溢れ出る人波のせいで会社に行けず困っているのだ。そんなサラリーマンの姿を見て、思わず笑ってしまった。
呆れる程に律儀でクソ真面目で場違いで、いっそ愛おしささえ覚える程愚かしい。
降り注ぐ隕石よりも何よりも、無断欠勤により職を失うことの方を恐れる彼のことを、降り注ぐ災害に対してどこまでも他人事な彼を、酷く「日本人」という生き物らしいと思った。
欠勤連絡などしても、降り注いだ隕石でどうせその職場ごと日本は終わるのに。日本ごと、職場は凄まじい質量に押し潰され、吹き飛んでしまうのに。
波は凄まじい勢いで流れて行く。逆行しようとした者、その場に立ち止まってしまった者。全てが例外なく、大きな一つの災害に呑み込まれて消えて行く。
前髪がさらさらと風に揺れた。波は途切れない。醜い罵り合いがスクランブルのように行き交っている。ビルの壁面に設置された大型モニターを見上げれば、画面左上の赤文字はもう二桁になっていた。もう、時間は一時間もない。
…………これが、エンドロールなのだと悟った。自分の、或いは日本の。一寸の希望すら持つ気にはなれなかった。時計を見ずとも「嗚呼、もう終わるのだ」と映画、或いは演劇の終演を察するように、やけに確信じみた終焉への感傷が胸の中にある。
……この世界には、ヒーローが居ない。
困った時、避けようのない最期に迫られた時、追い詰められた哀れな俺達を救い出してくれるスーパーヒーローは、この世界に存在しない。だから、この世界はもう、終わるのだ。今は居なくとも、とそんな人達の現れを期待した頃もあったけれど、もう十分だ。十分に思い知った。
ヒーローなんて、存在しない。
眠ろう。眠ったまま、静かに逝こう。
……渋谷には、三月にしては異様な熱気が集まっている。
まるで夏のようだと思った。汗ばむ長袖のワイシャツが肌に吸い付くのも、もう気にならない。
現在時刻は十二時四十分。授業に出席していれば、水曜日の今日は確か数学の授業だ。数学の授業はつまらない。
出席している時はいつも机に突っ伏して、眠ってやり過ごす。同じように、眠れる筈だ。期末テストが迫っているから、起きて授業を聞かなければ。そう焦燥がせぐりあげるのにいつの間にかそれさえ考えさせぬ深い眠りの底に落ちているように、眠りは胸の奥に湧き上がる、「逃げなければ」という衝動すらも溶かしてもっと優しく、深いところへと連れて行ってくれる筈だ。こう考えると、数学と隕石。似たもの同士。
嗚呼、何だ。終わりというものは案外いつも近くに居るものなのか。それがちょっとだけ大きくなって、空から降ってくる。ただただ、それだけ。……それだけだから、ただ眠ろう。
街路樹に寄り掛かった。表面はざらざらでこぼことしているが、不思議と悪い心地ではない。
目を閉じて、切り離す。街の音の全てが、置き去りにされる。そうして残ったのは、夏のような馬鹿らしい蒸し暑さ。たった一日友達と出掛けただけの消化不良の夏が、また戻ってきたような気がした。三月の蕾桜に、青々と茂る八月の緑葉を幻視する。
……何も今の今、戻って来なくても良いのに。そう恨みがましく思いながら、今度こそ本当に、意識を手放した。
────高校三年の最期の夏が、今終わる。
その日の十三時三十分。
カチン、と古びた時計が針を真っ直ぐ下に項垂れた。
*
『住民に通達……住民に通達……ただ今○○ビルの屋上にて、ヒーローとヴィランが交戦中。戦闘に巻き込まれないよう待避してください。繰り返します。○○ビルの屋上にて、ヒーローとヴィランが交戦中。戦闘に巻き込まれないよう待避してください。ヴィラン一名、狐のお面を被った少女です。まだ能力は判明していません。戦闘に巻き込まれないよう待避してください──』
*
20××年、三月一日。地球に隕石が降り注ぎ、後一歩のところで人類は……着弾点である日本領土は四方に割れ海に沈み、日本国民諸共滅亡せんとしていた。
だがしかし、隕石は幸運にも陸上に衝突する軌道を逸れ、海上に着水。最悪の事態は免れた……。
当時の人々は本気でそう思っていた。
その時地球を破壊しようと迫ったのは「巨大な岩」であったのだと、人々はそう本気で信じていたのだ。
人々がそう考えた理由は、単純明快。何の予告も無しに突如現れたその隕石を間近でじっくりと見ることなどは叶わなかったからだ。
その為人々は経験則から「宇宙から降るこの形状の物だから、あれは岩の隕石だろう」と勝手に結論付けて、議論すら開かずその正体に迫らなかった。だが見る者が見れば、気付いた筈だ。
……それが蠢き脈動する、『何か』の肉塊の複合体であったことに。
愚かな地球人共は、気が付かない。その肉でできた岩石の正体に、気付かない。わざと大地を避けて深い海底に沈んだその隕石を、見つけることなどできはしない。だから時が経つまで、その時になるまで、気付かない。その隕石は、海底でゆっくりゆっくり、解けていく。
ゆっくり、ゆっくり、それはもう。
ゆっくり。ゆっくり。
*
とくん、とくんと心臓が高鳴り、ペンを持つ指が震えて、自分が柄にもなく緊張しているのが分かった。こうして物語を綴っていれば分かるのだが……正直なことを言うと、私は主人公に向いていない。
…………私はヒーローではない。
それどころではなく、寧ろその逆だ。
私には目に付くもの全てを掬い上げてやれるような器量もなければ、更にはそれほど他人に関心がない。
人に何かを与えてやれればそれを誇らしくこそは思うものの、関わりのない他人の喜びに何の見返りもなく慈愛を持ってただ共に喜んでやることすらできない。
人間味に欠けていて、物語によく居る愛すべき愚者というにはどうにも賢すぎ、ついでに言えば凡庸と言うには頭の螺子が欠けすぎている。クラスの人気者でも特別美少女でもただ一人のスーパーヒーローでもない、大勢の中の一でしかない、詰まらない女。それが、それこそが私だ。
……私は、本当に物語の主人公とするには特につまらない人間だ。
ああ、私だってそうだ。こんななけなしの語彙を絞り出して書いたつまらない話など読みたくはない。
私だって読むなら叔父さんや姉、父なんかの波乱万丈でいてミステリーでヒロイック、そんな人間味に溢れた人生譚でも読みたいと思う。
なのにどうしてこんなつまらない人間の、たった十数年しか生きてはいない小娘の物語をわざわざ綴っているのかと言えば、他でもない。
瞬きのような、たった数年。これは決して、忘れてはいけないことだと思ったからだ。覚えていなくてはならないことだと思ったからだ。
……改めて、ここに書き留めよう。
記憶を探り探り、横からああだこうだと口を出されながら書き留めるので、もしかすればまとまりはないかもしれない。
だけど語ろう。当時の私が思ったことを、できるだけ思ったままに。時系列はぐちゃぐちゃ、思い出したことから先に書き出していくような、小学生の絵日記の方がまだ読める、筋道立たないおかしな文章。この世に二つとない、極めて珍妙でいて唯一無二の色物譚。
京都土産の狐面引っ被りさあお立ち会い。ヒーローに憧憬を抱いた少女の、歩いた道のり。定められた悪と善、かつて彼の人が見た世界を見定める、物語としてはあまりにも目的に乏しくあやふやでつまらぬ物語。
主人公は、夏山依織。始めは十五、マイペースで愚鈍にして、好くのは植物、夢にはヒーロー。職業、ヴィラン。
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