20_お姉さんが倒れた

「あっくん、おはよぅ」



今朝もお姉さんの気だるい声で目が覚めた。


昨日から聞きたいことはたくさんあった。


―お姉さんは病気なのか

―五感が衰えていくというのは本当か

―記憶がなくなるというのは本当か

―探偵のことを覚えているのか

―あの大量の薬はなんなのか

―そして、俺のことも何か忘れていないか


何度も言おうと思ったけれど、何も言えないでいた。


いつもと変わらないお姉さんの笑顔。

俺が幸せに感じていたものは、実は幻想で、元々存在していなかったという事だろうか。確認した瞬間にそれが現実になってしまいそうで、怖くて聞けなかった。



「あっくん、ご飯だよ」


「ありがとう」



そう言って、いつもの様にテーブルについた。

びっくりする甘さのフレンチトーストに、お姉さんははちみつをかけて食べていた。

これも味覚の衰えかと思ってしまうと、怖くなってしまう。



「お姉さん、今日出かけない?天気がいいし」


「うん、いいね」



ストーカー事件も解決したし、晴れてお出かけが解禁となっている。

俺達は身支度を済ませると外に出た。


外はすごく良い天気で、日差しも適度なものだった。

その天気とは裏腹に、俺の心は晴れない。どうしてもお姉さんのことが気になる。

もちろん、好きになった女性のことを急に知りたくなったりするのは普通のことだろう。でも、お姉さんの場合は、何か病気を患っているのかもしれないとのこと。


聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちが同時にあり、シュレーディンガーの猫の様に聞いてしまわないうちは、それは事実として確定しておらず、猫は箱の中で生きているのだ。


計らずとも公園で猫と戯れるお姉さん。猫の方が寄ってくる。ちなみに、俺には寄ってこない。本当に不思議なひとだ。



「あっくん!見てみて!このこ足先だけ白いよ!私は『クツシタ』と名前を付けた!」



お姉さんが今両手で抱き上げたクツシタが「箱の中の猫」ならばよかったのだが……


お姉さんが自分の掌のにおいを気にしている。

何というか、年上の女性としては天真爛漫というか、つかみどころがないというか、不思議ちゃんなところが残っていて、姉の様に思いながらも、どこか妹のようにも思っていた。



「あっくん!やっぱり野良ちゃんは臭いみたい!どこかで手を洗いたい」



眉がハの字になって困っている様子。本当に見ていて飽きない。



「とりあえず、そこのコンビニでトイレを借りよう。そこで洗ったらいいよ」



公園脇のコンビニに二人で入る。ペットボトルのお茶でも1本買えば、トイレ利用料になるだろう。


お姉さんが手を洗っている間、俺はコンビニの飲料コーナーのショーケースをぼんやり見ながら考えていた。


人物像的に捉えにくい女性。

亜麻色のふわふわの髪はいつもきれいで、少し目じりが下がり気味の目は甘々で多分万人の男がよろしいと思うルックスではないだろうか。


美人なので一見クールそうに見えるのに、俺と目が合うと少女の様に微笑み、近寄ってきて腕を組み甘えてくる。実際甘やかされているのは俺の方なのだけれど、俺の心は完全にお姉さんに囚われている。

俺はずっとお姉さんのことを考えている。病気のことも含めて。


そう言えば、10年ぶりに再会したその日に俺のことを「監禁」すると言っていた。

心の上では、計らずとも俺は完全にお姉さんに監禁されていると言っていい。


あの豪華すぎるタワーマンションの部屋へやだってそうだ。

最初は引くくらい豪華だと思っていたけれど、お姉さん込みですごく居心地がいい。

最近では、自分の部屋いえのことは忘れていたほどだ。


古い家の不用品を処分する寂しさなどなく、新しい家でお姉さんと暮らす期待による嬉しさの方が完全に勝っていた。


カードキーまで渡されていつでも出られるのに、自らそこを選んでいるのだから「監禁」というネガティブな言葉はそぐわないだろうけど。


大学進学など俺に未来の道を指示してくれ、何もやりたいこともなりないものもなく、日々目の前の仕事をこなすだけの生活を変えてくれた女性ひと


コンビニを出て、ショッピングモールに向かう道すがら、お姉さんはやっぱり俺と腕を組み、笑顔を向けてくれていた。

俺はおもむろにお姉さんの方を見た。



「お姉さん、お姉さんのことは昔から好きだったけど、ここに来てまた好きになってしまいました」



何だか変な言い回しだけど、初恋の人であり、今また好きになってしまったのだからしょうがない。



「なっ」



組んだ腕に少し力が入り、顔を真っ赤にさせるお姉さん。まるで中学生が初めて告白されたみたいな表情だ。



「あっくん、また私のこと揶揄からかってー!」



組んだ腕をポンと叩かれた。もちろん、揶揄っているつもりなど一切ないのだけど。

お姉さんもテレ隠しで言ったのか、顔は笑っていて、頬に掌をぺちぺちと当てて、自分の顔が赤くなっているのをしきりと気にしていた。



***



ショッピングモールは平日だというのに人が多い。ゆっくりしたい場合人は少ない方が嬉しいけれど、それだとお店が儲からなくて場所自体がなくなってしまう。

このくらいが「ちょうどいい」のかもしれない。


お姉さんと一緒にショッピングモールをうろうろと見て回った。

ただ、ランチはお姉さんの希望でモールの外の和食の店に行った。


普段の俺なら絶対に入ることが無いような高級店。

外から見ただけで高級だと分かる。店内に入ると和服の店員さんが座敷を案内してくれた。

店内はカウンターもあるのだけど、お姉さんが座敷を希望したのだ。


8畳ほどの畳の個室の中央に重厚感のある長テーブルが置かれていた。

長テーブルも屋久杉か何かをテーブルの厚さに切って足をつけテーブルにしたような、調べなくても高級だと分かるものが普通に置かれていた。

ファミレスとは一線を画して空間。


テーブルの前に置かれた座布団に座ると、すぐ横にお姉さんが座り、膝は少し俺の方を向けていた。



「どうしたの?急にこんな高級店で……」


「あっくんが、何か聞きたいかな、と思って」



負けた。ショッピングモールのざわざわした感じでは話しにくいと踏んだのか、俺が話しやすい場所を準備してくれたという訳か。

やっぱりお姉さんは、お姉さんだ。俺と違って大人だった。



「一番言いたいことは、朝、コンビニを出たところで言ったよ」



思い出したのか、お姉さんの顔が再び赤くなる。



「思い起こせば、お姉さんは俺の初恋の人だった。子供の時に結婚してやる、って言ったのは、上から目線過ぎて今では恥ずかしいけど、気持ちだけは本当だったんだ」


「……」


「俺はまだ成人してないけど、どこかで道を間違えたと思う。どこを見て進んでいいか分からなくなってて、足元ばかり見てたんだと思う。今、お姉さんに会えて本当によかった。ありがとう」



そう言うと、お姉さんは両掌を口の辺りに当てて必死に涙を堪えていた。

俺の感謝の言葉は嬉しかったにしては、涙ぐむまでのこととは思わなかったので、ちょっと驚いた。

お姉さんは感情が豊かだからかな、とそれほど気には留めなかったけれど。



「俺……大学がんばってみるよ。そして、立派ななにか、少なくとも自分に自信が持てるなにかを目指すよ。お姉さんにはずっとそばにいて見ててほしいんだ」



俺の言葉に耐えられなかったのか、お姉さんの涙が頬をこぼれ落ちる。

ここでかっこよく指輪を出してプロポーズでもすれば絵になったのだろうけど、俺は現在フリーター兼ヒモでお姉さんを支えるだけの経済力も力も自信もない。

それは実現しなかった。

でも、お姉さんは絶対に手放したくないと思っていた。


お姉さんが少し落ち着いた頃、店員さんが注文を聞きに入ってきた。

入店してから少し時間が経っていたのだけど、高級店は注文を聞くタイミングも考えて対応してくれているのかもしれない。


注文は、懐石料理みたいなのを注文したのだけど、すごく品数が多くて食べ応えがあった。

その一方で、ひとつひとつはほんの少ししか出てこない。

こんな店は親とだって来たことがない。お姉さんに連れてきてもらわなければ、一生入ることはなかった店だし、一生食べることがなかった料理だろう。


そのお姉さんは、あの後あまり食が進んでおらず、その多くを残していた。

お姉さんにしては珍しいことだった。


事件は、その日の夜、お姉さんの部屋いえに戻ってから起きた。

リビングのソファでお姉さんとテレビを見ていた時のことだ。

コーヒーカップを両掌で包むように持っていたお姉さんが、ゆっくりとテーブルにカップを置いた。


そのままゆっくりとスローモーションのようにお姉さんはソファとローテーブルの間に倒れ込んだ。俺はその光景の一部始終を見てしまった。


お姉さんは意識がなく、俺は救急車を呼んだ。

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