3_お姉さんと一緒に住む契約とは
魅力的な条件が目の前にいくつも並んでいて、気が付いたらお姉さんとこの
仕事部屋からリビングに戻ってきたとき、お姉さんが手を出した。
「『今日からよろしく』の握手だよ」
亜麻色のふわふわの髪は
そのお姉さんは気持ちが晴れたようなすっきりとして笑顔を俺に向けてくれていた。
これは、いわば契約のような意味を持っている握手ともいえる。
ここに住ませてもらうと決めたのだから、拒む理由などない。
ない……のだけど、お姉さんの手を握るというのが……どうにもテレる。
「…」
「あっくん?」
俺が手を出したり、引っ込めたりして躊躇している時だった。
(ガバッ)「!!」
突然、お姉さんが抱き着いてきた。ハグ!?ハグなのか!?突然のことに固まる俺。
俺の真正面から抱き着いてきていて、お姉さんの手は俺の背中に回されている。
お姉さんの大きなオッパイは俺のお腹の部分に押し当てられ、やわらかい感触を伝えてきている。
そして何よりすごく良いにおい!
女の人ってなんでこんなにいいにおいがするんだ!?
香水みたいなわざとらしいにおいじゃなくて、自然な感じのいいにおい。
調子に乗って俺もお姉さんを抱きしめ返したいけれど、俺の手はお姉さんの腕でハグられていて身動きができない。
そんな折、お姉さんが俺の胸の辺りに頬擦りを始めた。
「あっくん、あっくん、あっくんだよぉ。本物のあっくんだぁ……」
なんかうっとりしてるんだけど、いいのか!?それで。
どんなつもりか知らないけれど、高卒のフリーターに抱き着いて何か楽しいのか!?
むしろ、きれいなお姉さんに抱き着かれて得をしているのはこっちの方では!?
「はぁ、堪能しました」
ほどなくしてお姉さんが俺から離れて言った。
いえ、こちらこそ堪能させていただきました。
「あ、早速合鍵とか渡さないとね!」
お姉さんがテーブルの上に1枚のカードを置いた。
このマンションに入ってくるときに使っていたカードキーだ。
恐らく複数枚あって、これは予備だろう。
お姉さんの目的は、俺の監禁だったのでは!?
監禁と言えば、部屋に鍵をかけて外に出られなくしたりするのかもと思っていたのに、最初に
これでは、軟禁?幽閉?とにかく俺が思っていたものと全然違うぞ!?
「この鍵がないとエレベータにも乗れないから注意してね。安全上の問題で外に出ることはできるのに、戻ってくるときに鍵がないと入ってこれないから」
そうか。火事の時なんかは鍵なんかなくても外に出られないと大変だ。
出ることはできるけど、戻ることはできないのか。
ゴミ出しの時とかうっかりしたら大変そうだなぁ。
「ちなみに、鍵を忘れて
「
「コンシェルジュ……」
そう言えば、エントランスのテーブルに座っている人がいた。
あの人がコンシェルジュか。
「ただ、18時までしかいてくれないからその後は、管理会社に電話して……とにかく大変だから、その時は私に電話してね」
そうか。
スマホは手放せないな。
「私もうっかりしたら、あっくん助けてね」
ウインクで舌をペロリと出したいたずらっぽい顔をしたお姉さんはめちゃくちゃかわいかった。これは何をされても許すに違いない。
「その他も細かいことを話しておこうね」
「細かいこと?」
「例えば、あっくん年金払ってるでしょ?バイト辞めちゃったら払えなくなっちゃうから、引き落とし元を私の口座に変更したり……」
本当に細かいことだけど、そこまで考えてくれているのか。
たしかに、バイトを辞めていいと言っていた。
でも、俺がここでバイトを辞めたら、職業はヒモになってしまうんだけど……
ヒモとフリーターだったら、まだフリーターの方が社会的に大丈夫なはず。
「あとは、お小遣い」
「え!?」
「お小遣いも重要だよ。ある程度自由に使えるお金がないと色々困ると思うから」
三食昼寝付き、おやつ付きでさらにお小遣い付き!?
そもそもお姉さんと一緒に住むってだけで課金モノなのに、更にお小遣いって……
「月に3万円!……だと少ないかもだから5万円……服とか買うかもしれないし10万円!」
いや、普通渋って安くなっていくもんでしょ。なぜ言う度に増えていくんだよ。
たしか、男性サラリーマンのお小遣いの平均が三万九千円くらいだったはず。
バイトしかしてない俺がそれ以上もらうのは気が引ける。
いやいや!そもそもお小遣いをもらうこと自体おかしいだろ!
「あの……お姉さん、お小遣いくらいは自分でバイトして稼ぐので……」
「うーん、バイトに行っちゃうくらいなら、お小遣い渡すから
お姉さんが手を合わせてお願いしてきた。
お小遣いを渡す人がお願いしてくるってなんか変だ。何かがおかしい。
でも、俺の時給が900円なので、3万円稼ぐためには34時間働く必要がある。
1日5時間働くとして週2か週3くらいは出る必要がある訳だ。
お姉さんとしては、俺に
「じゃあ、バイトは徐々に減らしていくようにしますので、もうちょっと時間をもらえますか?」
「時間……そうだね。いきなり変わっちゃうと大変だもんね。分かった」
とても聞き分けがいいお姉さん。
何かびっくりする落とし穴があると思っているんだけど、ここまでのところ全くない。見渡す限り綺麗に舗装された道路だ。安心して歩ける感じ。
ただ、話しがうますぎるので俺はどこか落とし穴があると心構えていた。
「あと……次は…引かないでね」
「?」
前置きから入った。なんだろう。
ここら辺で落とし穴がやってくるのか!?
「もし…万が一、不測の事態を考えると、お互いがケガをしたり、病気をしたりしたとき、病院とかではもう一方には会えないことが多いの。病状を聞いたりもできないし」
「ああ、プライバシー保護とかですね」
「そうそう。だから、その時のためにこんなものを準備しました……」
すごすごとテーブルの上に紙を差し出すお姉さん。
顔が真っ赤だけど、そんなに恥ずかしいものを出したのだろうか。
紙は二つに折られていて、茶色っぽい線で表のような物が書かれていた。
そこにかかれていた文字は……
「婚姻届け!」
「あひゃー!」
お姉さんが両手で頭を隠した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。調子に乗りました!いつか、あっくんと結婚できたらと甘い妄想を勝手にしてしまい、婚姻届けを取り寄せて勝手に自分の分を書いてしまいました!!」
両手で顔を隠したまま、捲し立てるように早口で説明するお姉さん。
たしかに、びっくりしたけれども。でも、俺は結婚相手としては最悪だろう。
フリーターだし、将来の夢もないし、目標もない。
そもそも何かになりたいと思ったことがないのだから。
「お姉さんが俺のことを好きでいてくれるのは分かった。でも……俺は結婚相手としてはお姉さんにふさわしくないよ」
「え!?なんで!?私あっくんが結婚してくれるならスキップしてマンション一周してくるよ!?」
それはそれで見てみたいところだけど、すごく恥ずかしい思いをするのは俺のような気がするので、ぜひやめていただきたい。
「俺はフリーターだし、将来性とかないし……」
「普通、女性は男性に経済力とか、将来性という名の継続的に安定収入があるかを求めると思うの。でも、私は収入に関しては困ってないし、求めている物は癒しなの!」
確かに人の求めるものは違うかもしれない。それが価値観というやつだろう。
多くの人の求めるものとお姉さんが求めているものが違っていてもそれは全然おかしいことじゃない。
ただ、そこまで言われると、俺が提供するという「癒し」とやらのレベルが心配になる。
俺はお姉さんを癒すことができるのだろうか。
しかも、収入よりも重要なクオリティの「癒し」だ。
いきなり自信がなくなってきた。
「あっくんはうちにいてくれればいいから。それだけで私は十分癒されてるから……」
そう言われてもなぁ……
「あの……結婚を迫っている訳じゃないの。よし!この紙は棚に仕舞っておきましょう!そうしましょう!」
俺の暗くなった顔を見たからか、お姉さんが婚姻届けを仕舞ってしまった。
単純に、お姉さんみたいな美人と結婚できるなら喜んで結婚したい。
逆に断るやつがいたら、「身の程知らず」と言ってやりたいほどだ。
ただ、俺は自分に自信がない。
自分だけでも精一杯なのに、お姉さんを支えるなんて……
「はい!細かい話はここまで!夕飯を作ろうと思うんだけど、何がいい?」
「え?作ってくれるの!?」
「うん、あるものでしか作れないけどね」
「そりゃあ、お姉さんが作ってくれるものなら……」
俺は料理の手伝いを申し出たけれど、最初は一人で作りたいからと丁重にお断りされてしまった。
だから、言われた通りにリビングでテレビを見たり、スマホでゲームをしたりしてご飯ができるのを待った。
ただ、やっぱり気になるから、ちょくちょくお姉さんの料理風景を覗きに行ってみた。
キッチンに置かれている料理器具の種類やお姉さんの立ち居振る舞いを見たらいつも料理をしているのがすぐに分かった。
まずは、髪。亜麻色のふわふわの髪は後ろで軽く縛られていて、清潔感があった。
その上、新妻御用達の装備「エプロン」が実にしっくり来ている。
後は音。意識してか、無意識かは分からないけれど、リズミカルに一定のリズムを刻んでいるのだ。
動きに無駄がなく、慣れた動きだから音も一定になって、心地いい。
そして、待つこと40分。
食卓に並んだのは生姜焼きとご飯に味噌汁、それに付け合わせの小鉢でポテトサラダとほうれん草の胡麻和え。
……それに、いかのお寿司。これだけ異質ではないだろうか。とってつけたような。
「寿司?しかも、いかだけ?」
「あっくん、さっき、いかのお寿司食べたいって言ってなかった?」
「……」
……ありがたくいただきます。
生姜焼きは、作っている最中からいい匂いがしていたし、肉を焼くときにジュージューと美味しそうな音もしていた。
それだけで空腹に拍車をかけていて、腹の虫がぐーぐーうるさいほどだった。
「さ、いただきましょう」
「はい!」
「「いただきます」」
一口目を口に入れた時、お姉さんがこちらをじっと見ていた。
じっと見られると食べにくいのだが……
そんな気持ちも一口目が口の中に入ることで一気に消し飛んだ。
うまい!
俺好みのしっかりとした味付けで、ガツンと来るうまさ。
その表情を見てお姉さんは少々興奮気味。
「どう?どうなの?言って言って!」という顔をしている。
それは分かるのだけど、とにかく生姜焼きがうまいんだ!
そして、キャベツの千切りなども付け合わせで付いているのだけど、口の中をリセットしてくれて、次の一口がまたうまくなる無限ループ。
ポテトサラダのマヨネーズと生姜焼きのタレの味がベストマッチ!
そして、ほうれん草の胡麻和えってこんなに風味が良かったっけ!?
胡麻の風味がめちゃくちゃ立ってる!
「お姉さん!うまいよこれ!」
「はー、よかった。お口にあったみたいで」
ようやくお姉さんの肩から力が抜けたみたいだ。緊張してくれたのかな。
一口っていうか、しばらくずっと見られていた感じがする。
もしかしたら、普通の定食屋よりも味は濃いめかもしれないけれど、俺にはぴったりだった。
生姜焼きもうまいけれど、みそ汁がまためちゃくちゃうまい!
味噌なのか!?ダシなのか!?
「お姉さん、この味噌汁めちゃくちゃうまいけど、何が入ってるの?」
「うーん、特別なものは入ってないけど、あえて言うなら……愛情?」
言った後、お姉さんが真っ赤になって下を向いてしまった。
言って自爆するなら言わなければいいのに。
どうしてこう俺をニヤケさせるのか。
どれもこれもうまくて、毎日食べたい味だった。
「こんな料理、毎日でも食べたい……」(ぽつり)
「!!ぷっ、プロポーズ!?」
「あ!あー、いやいや、別段そういうわけではっっ!」
「むー、なーんだ」
少しがっかりした様子で頬を膨らませるお姉さん。
がっかりさせた点は申し訳ないけれど、素直な感想だったんだよ。
「いかのお寿司はどう?」
「……いかのお寿司もおいしいです」
とりあえず、お姉さんの手料理で夕食を堪能した。
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