第77話 キックオフ

特別補講が終了した翌日。


ケントはヤネンの領主館を訪れていた。


(さて、ここからはビジネスの時間。気持ちを切り替えなければ。朝は大変でしたが、ここからは佐藤謙に戻ったつもりでやっていきましょう。)


そう、ここに来るまでに、ケントは一つの修羅場を乗り越えていた。


事前に伝えていたにも関わらず、メグの強硬な足止めを食らったのだ。


一緒に実家に帰ろうと誘うメグに対し、ケントはコレアの誘いに乗ると決めていた。


寮には毎晩帰ると伝えたのだが、一緒に帰りたいメグはケントを簡単には離そうとしなかった。


結果としては解放されたものの、想定外に粘るメグに、ケントは若干の精神的な疲労を感じていた。


(有難い事なんですがね。佐藤謙として生きていた頃には感じられなかった愛情を、ケントとしては色々な方々に注いで頂いている。しかし、領主の手伝いをする事は決定事項でしたから。)


やむを得ないとはいえ若干の後ろめたさが無い訳でも無い。


後ろ髪を引かれるような思いを胸に、ケントは領主館に足を踏み入れた。





大体の日取りしか伝えていなかったにも関わらず、コレアはすぐにケントを出迎えてくれた。


「やあ、ケントくん。来てくれてありがとう。特別補講は有意義だったようだね。」


「そうですね。しかし見ただけで分かるものですか?そういえばボル姉…ボルクさんも見ただけで格の高さを見分けていたように感じましたが。」


「まあ、腐っても元冒険者だからね。それぐらいは分かるさ。」


コレアは微塵も自慢げな様子を見せず、むしろ自虐的な表情で答えるとケントに着席を促した。


コレアとケントが向かい合って着席すると、部屋の隅に立っていた端正な顔立ちのすらっとした女性が飲み物を運んできた。


「ありがとうございます。」


「いえ、お気になさらず。」


女性は茶をテーブルに置くと、また部屋の隅に戻っていった。


ケントはなんとなく視線を感じてそちらを向くが、女性はあらぬ方向を向いており、不思議な思いを抱えつつもケントは置かれた茶に手をつけた。


「さて、ケントくん。早速で悪いが仕事の話だ。」


お互いティーカップをテーブルに置いたところで、コレアがケントに話を持ちかけた。


「はい。」


「仕事の内容に関しては、先日話した通りヤネンの街の調査、分析、及び改善案の提出だ。今のところどんな流れを考えているのかな?」


コレアは心なしか楽しそうな表情を浮かべてケントに問いを投げかけた。


「そうですね。

まずは住民の数、家屋の数、面積などの基本的な数値計測を実施。

その上で食糧、飲水、その他必需品の生産量を計測。

また経済の状況や治安、政治体制や獣の出没頻度などを確認した上で、現状の課題を抽出して解決策を検討しようかと思っています。」


「まったく問題ない。それで進めてくれ。しかしそんな仕事量、長期休暇中に終わるかい?人口調査だけでもかなりの手間だと思うが。」


コレアの疑念も最もだ。

ちなみにヤネンの街では一年を掛けて人口を把握する事を繰り返している。


「ええ。ただし既存の帳簿の確認はさせて頂きますよ。」


「構わない。必要な物があればいつでも言ってくれ。ああ、あともう一つ。エル、こちらへ。」


コレアが声を掛けると、先程茶を運んできた女性がコレアの後ろに立った。


「この子はエルザ。僕の手伝いをしてもらっているんだが、何か必要な事があればこの子を使ってくれ。」


コレアの言葉にエルザは少し目を見開いた後、無言でケントに向かって頭を下げた。


「エルザと申します。お力になれる事があれば、何なりとお申し付けください。」


「エルザさん、宜しくお願いします。ケントと申します。」


ケントも立ち上がり頭を下げた。


「よし、それでは頼むよ、ケントくん。報告を楽しみにしている。相談などがあればエルザに言伝をしてくれ。この館にはいつでも入れるように手配をしておく。」


「はい。お心遣い、痛み入ります。では早速エルザさん。帳簿の保管場所を教えてください。」


ケントはそう言うと、応接間を出て行った。


「はい。ではコレア様、失礼致します。」


「ああ。宜しく頼むよ。」


扉が閉まり、応接間に一人残されたコレアは小さく息を吐き、席を立つと窓際に立ち窓の外を眺めた。


「ドリス、マリーナ…君達の息子がこの街にどんな変化をもたらしてくれるのか…僕は楽しみで仕方ないよ。」


コレアは一人呟いて部屋を退出しようとしたが、テーブルに置き去りにされたティーカップに気づくと、深い溜息をついて片付けを開始した。

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