或る男
みふね
書く男
男には長年想いを寄せる女性がいた。小中高と同じ学校に通っていたにも関わらずまともに話したことはなかった。それでも彼女の優しさや美しさを誰よりも知っているつもりだった。
卒業の日、男は彼女の下駄箱にラブレターを入れた。ラブレターと言ってもただの手紙ではなく、今までの想いを紙いっぱいに綴ったモノローグのようなものだった。
ホームルームを終えた彼女が下駄箱を開きその紙を発見し、その場で立ち尽くして読んでいた。そして後から来た彼女の友達に男の告白文を晒し笑っていた。
その一部始終を見ていた男はどうしてか悔しさよりも不思議な心地よさが残った。なぜかはわからないが自分の書いた文字のひとつひとつが好きな女性の目に入り視神経を伝って脳に届き、その中で文章として再び構築されることを想像するだけでこの上なく興奮した。その瞬間だけ彼女の内なる部分と繋がれたような気がした。
こうして自分の想いを伝えた気になっていた男だが唯一心残りがあるとすれば自分の名前を書かなかったことだった。もう二度と会えないかも知れないというのに最後の最後まで嫌われたくないという臆病さが勝った。だが彼女と一瞬でも繋がれた気がしただけでも男には十分だった、はずだった。
男はしがない物書きになった。
誰でもいいから自分の文章を読んで欲しかった。店頭に並んだそれが、或いは新聞の端に書かれたそれが誰かの目を通して脳内で再生され、感情に変換される様を想像しては身悶えた。だが男が四畳半の一室で丹精込めて書いた文章の一つとして公の場に晒されることはなかった。
男にははっきり言って才能が無かった。どこの出版社に持ち込んでも独りよがりで支離滅裂な文章だと言われ、そのまま突き返された。賞レースに応募してみてもすべて空振った。
時間をかけて書いた作品を送っては返され、ときには男の目の前で捨てられた。今までの自分を否定されたような日々に擦れ、あるとき思わず手を上げてしまった。
それ以来あらゆる出版社から出禁を言い渡され、ついに文章を公に見せる機会を失ってしまった。
それでも自分の文章の良さなど誰にもわからないのだ。いや、誰にだって理解されてたまるか。と心の中で毒づき、書くことをやめなかった。
男は自分のことを書いた。
幼い頃に家族を捨てた父のこと。たった一人で自分を育て、そして2年前に亡くなった母のこと。自分を馬鹿にした人。認めてくれた人。好きだった人。嫌いだった人。文字に書き起こしていくことでそれまで雑踏に埋もれていた自分がようやく一人の人間としての輪郭を纏っていくような気がした。
だがそれは
そんな強迫観念に似た妄想に駆られた男は自室に篭り寝食も忘れて筆を走らせた。
痩せこけた頬や伸びた髪や爪はすべて外皮に過ぎない。本当の俺はそこにはいない。今目の前に書き尽くされた紙の中にこそ俺は存在するのだ、と。
書き上がった文章は千枚にも及んだ。
そしてそれを真っ先に読ませたい人物がいた。あの日ラブレターを送った彼女だ。あのときはなんとも思わなかったが今になってラブレターに名前を書かなかった後悔が孤独な日々の中で幾度となく浮き上がってくることがあった。その度に臆病な自分を笑う女の声が耳の奥から聞こえてくる。それが耐えられなかった。
男は母が保管していた古い連絡網からあらゆる人を経由して彼女の住所を聞き出した。
俺の作品を読んだ彼女はどんな顔をするだろう。またあのときのように笑うのだろうか。それとも俺の境遇を知って泣いてくれるだろうか。
次々に浮かぶ妄想に胸を高鳴らせながら原稿用紙の束を段ボールに詰めた。それを車の助手席に載せて彼女の家と言われた場所に着く。
だが表札に書かれた苗字は彼女のものではなかった。嫌な予感を押し殺し、家の前に立ち尽くしていると道の向こうから歩いてくる女性が見えた。それはまさしく彼女だった。
少し歳をとったようだがあの頃の美貌を未だに残している。変わったところといえばお腹が大きく膨れていた。彼女は妊娠しているようだった。
そして家の前に立つ男に向かって怪訝そうな目を向けこう言った。
「あの、どちら様でしょう?」
その瞬間、心が空白に支配されていく感覚を覚えた。助手席の段ボールはもはやゴミ以外の何物でもなく俺が今までしてきたすべての行為を頭から否定された気がした。
男は彼女の声に応じることなく近くに停めた車に乗り込むと力いっぱいにアクセルを踏み、逃げるようにその場を後にした。
その日の夜、男は東京の廃ビルの屋上から書き溜めた原稿用紙をばら撒いた。
千枚にも及ぶ原稿用紙がさんざめく東京の街を覆い尽くしてひらひらと舞っている。これがこれから東京の数万の人間の目に触れることを考えるとまた身悶えした。ゴミ同然となってしまった紙切れも火をつければよく燃えるように、それらは底知れない快感と燃えるような全身の火照りを男にもたらした。
だが心の奥底にどうしても埋まらない深い空洞があった。想いを寄せていた彼女のことだ。
東京で働いている彼女が千枚のうちのたった一枚を偶然にも拾い、目を通してくれたならば俺は報われるのだろうか。いや、三千枚如きで彼女に届くはずがない。彼女にはもう大切な人がいるのだ。何千、何万といくら文字を重ねてもきっと無理だ。
もし卒業式の日、俺に勇気があればこの口から彼女に想いを伝えられたのだ。だが臆病な俺は今日の今日まで逃げ続けた。その成れの果てがこれだ。
そしてこれからもあの日の悔恨を嘆き、二度と埋まらない空洞を抱えたまま一人虚しく生きていくしかないのだ。それならいっそ死んでしまった方がマシだ。
そのときある妙案が浮かんだ。
もし俺がこの屋上から飛び降りたならその知らせはいずれ彼女に届くのではないだろうか。つい最近まで彼女の住所を聞き出していた男が死んだとなれば彼女も他人事ではいられないはずだ。そうだ、それなら俺の遺した小説にも目を通してくれるのではないだろうか。
彼女は俺の死に何を思うだろう。臆病者なんかじゃなかったと認めてくれるかもしれない。そして俺のためにきっと泣いてくれるに違いない。
ああ、楽しみで仕方がない。
男はにこやかな笑みを浮かべ、舞いしきる紙吹雪に歓迎されるかのように東京の空へと落ちていった。
了
或る男 みふね @sarugamori39
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