第35話
二人の間にしばらく時間が止まってしまったかのような沈黙が落ちたが、リデルがいち早く立ち直った。
目の前で呆然自失として立ち尽くすフリードリヒに、慌てて駆け寄って彼の背中に触れた。
その瞬間、彼がするりとよけたのでドキリとしたが、ただ振り返っただけですぐにリデルを抱きしめた。
「ああ、リデル、私はきっと子供の頃にここに閉じ込められていたのだ」
彼に拒絶されていないことに安堵したが、子供の頃の境遇を思うと胸が塞がる。フリードリヒの大きな体が震えている。リデルはなだめるように背中をさすった。
「旦那様、どうか無理をなさらないでください。いったん城に戻りましょう」
「君をこんなことに巻き込んで済まない」
苦しそうに彼は言う。顔色も悪い。
「とにかく、いますぐここを離れて城に戻りましょう」
リデルは彼をなだめながら塔の外へ連れ出した。
◇
塔から戻ってしばらくはショックを受けているようだったが、温かい茶を飲んで少し落ち着いた。
「旦那様、もう、これで終わりにしましょう」
リデルはフリードリヒの悄然とした様子を見て心配になった。
「リデル、一つだけ思い出したことがある。あの文字は私が子供のころ、スプーンで刻んだものだ」
彼は絶望的な子供時代を過ごしているのだ。一体何があったというのだろう。
「旦那様、私は謝罪などいりません。今のままで十分幸せです。だから、どうかもう過去を探すことはおやめください」
リデルは懇願した。彼と結婚して特別嫌な思いなどしていない。むしろ幸せだ。あのまま親戚に乗っ取られた生家にいたらと思うとぞっとする。
「しかし、それでは、君に誠実に向き合っているとは言えない」
「そんなことはありません。旦那様は誠実な方です。だいたい思い出したくないから、忘れたのでしょう?」
「私は自分から逃げている。それなのに君と普通の夫婦になりたいと考えてしまう。……卑怯ではないか」
「卑怯? 何がいけないんです? 辛いなら逃げたっていいじゃないですか」
いつもとは違うリデルの激しい口調に、驚いたようにフリードリヒが顔を上げる。
「いやなら、全力で逃げればいいではないですか! 旦那様は数々の戦場を経験されてきたことと思います。勝てない敵から逃げたことはないのですか? 勝てないとわかっている敵に部下と共につっこんでいったことはあるのですか?」
「……覚えてはいないが、もしそうしていたら、今私は生きてはいないだろう」
フリードリヒがリデルの勢いに押されたように答える。
「これは戦略的撤退です。逃げて、逃げて、逃げ回ればいいんです。せっかく忘れたつらい過去を思い出して、二度も傷つく必要なんてありません」
「リデル……ありがとう」
そういって彼はリデルをそっと抱きしめた。
それ以来、ときどきふさぎ込む夫を見ることはあったが、彼はじょじょに元気を取り戻していった。
夫はまるで塔に入ったあの日を忘れるかのように、領内を奔走し仕事に没頭している。銀山の採掘を新たに開始し、領内だけではなく近隣の領からも人を募り街道の舗装工事も始め、忙しい日々が続いた。
そんなある日の晩餐で、夫から言われた。
「宿屋の建物は完成した。それで君に頼みたいことがあるのだが」
「なんでしょう?」
やっと彼の手伝いをさせてもらえるようだ。素直にうれしい。
「城を見る限りでは私にセンスはないようだから、内装を一緒に考えてほしい」
リデルが城に住むようになってから徐々に変わってきていたが、確かに無骨な感じはする。
「私が最初に住んでいた別邸はとても素敵な内装でしたよ」
「ああ、あそこは私の父が家督を継いだ後、祖母が住んでいた場所のようだ」
初めて聞く話に少しドキリとした。
「そうだったんですか? それは思い出したのですか」
不安げに彼を見る。
「いいや、記録を見たけだ」
「まだ、過去をお探しだったのですね」
リデルは彼が心配になった。もしも彼女がいないときに彼が過去を思い出したら、ある日突然以前のようになってしまったら。
「大丈夫だよ、無理はしてはいないから。何かあれば必ず君に相談する」
そういって、穏やかな笑みを浮かべた。
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