第36話
その日は夜が明けきらぬうちに夫と馬車で城を後にした。
とうとう宿屋の建物が完成した。まだ客を入れられる状態ではないが、簡易的に泊まることが出来るようになり、二人は一泊二日の旅に出た。
久しぶりにリデルの胸は期待に高鳴った。
街道は以前に比べると随分と整備され、馬車旅は快適だった。
現地に降り立ったリデルは、意外に立派な外装に驚いた。廃屋を買い取ったと聞いていたので、もっと鄙びたものを想像していた。
「随分と立派ですね」
「ああ、土地もあるし小さなものではもったいないと思ってね。改築とは言っていたが、ほぼ建て直しと一緒だ」
と言って彼は苦笑した。フリードリヒの意気込みを感じる。
リデルは三階建ての宿屋に入り、まだ何も手を付けられていない室内を見て回る。
贅沢な家具やアメニティをそろえるよりも、まずは自分が宿屋で必要とするもの、野宿でほしいと思ったものをそろえることに決めた。
できれば、体を拭うだけではなく、バスタブも欲しい。しかし、そういったものより安価で泊りたいものもいるはずだ。
部屋によりグレードを決め、フリードリヒが宿屋開店にあたり募集した経験者に意見も聞きながら設備を整えることにした。
領内は農業に従事しているものがほとんどなので、フリードリヒが他の領や王都にまで募集をかけ経験者を集めていたのだ。やはり領主が乗り出すと規模が違うし、仕事が速くスムーズに進む。
その後、内装工事の進み具合も順調で、夏の間に第一号の宿屋が出来た。今夏はこれが限界だろう。うまく軌道に乗ればいいとリデルは祈る。
「リデル、来年にはもう一棟建てるつもりだ。もちろんそれと同時に街道の整備も続ける」
フリードリヒは張り切っている。
「それは楽しみです」
「いつまでも王都まで交通が不便では資源があっても使いようがないからね」
楽しそうに領の未来について語る彼をまぶしく思う。
いつの間にか夫の顔は明るいものに戻っていた。彼の中で何かが吹っ切れてきたようで、リデルはほっとした。
「それから一つ良い物件を見つけんだ。よければ買い付けようと思う」
「それならば、私も一緒に」
「リデル、もう少し街道が整ってからにしよう。今ある宿よりずっと王都寄りなんだ。まずは私が行ってくる。それに君にはもう一つ大切な仕事があるだろう?」
リデル主導で進めてきた工房の規模拡大の打ち合わせもある。
新しく人を雇い入れるにあたり面接もしなくてはならない。王都に募集を出さずともフィーの細工に魅せられ幸い領都から応募してくるものが増えていた。
それに温泉宿の件もある。リデルは一軒だけで終わらせる気はなかった。
そのためハワードやドロシーと相談しつつ、領都周辺を見て回り城での執務を続けた。
夫は夫でひたすら街道の整備や宿屋建設に従事していた。最近彼は留守がちだが、リデルが一人で仕事をしていた時よりもずいぶん楽だ。
今は夫婦で協力し合って、領を盛り立てていこうと頑張っている。結婚当初には思いもよらなかった展開だ。
侯爵夫人の仕事はやりがいがあり、必要とされ、日々忙しくも楽しい生活を送っている。
そして、二人が城にいる時には領の未来について語り合い、ゆっくりと食事を楽しんだ。リデルは忙しくも穏やかな幸せをかみしめていた。
◇◇◇
夫が遠くの銀山の採掘を再開したから、様子を見に行きたいと二週間の予定で城を後にした。リデルは執務にはすっかり慣れていたので何の支障もなく、日々順調に仕事をこなしていた。
しかし、夫と長く離れていることに不安はある。戦地より帰還してから彼が城を離れるのは最高でも5日程度だった。
ずっと二人で囲んでいた食卓が一人になり、心にぽっかりと穴が開いたような寂しさを覚える。
そんなある日、王都から先ぶれもなく来客があった。門番から連絡があり、リデルは急ぎ城門へ向かう。
そこで二度見たくないと思った顔をみた。
「驚いたわ。聞きしに勝るど田舎ね」
イボンヌがさげすんだように言う。
「本当にここまで来るのは大変だった。途中に宿すらないのか?」
伯父が疲れたように言う。あるにはあるが彼らは宿泊費をケチったのだろう。
「でも随分いい暮らしをしているようね。そのドレス、上等な布地を使っているわ」
伯母が目をすがめ、イラついた口調で言う。
「いまさら、何しに来たのですか?」
ようこそなどと言う言葉は出てこなかった。リデルは彼らを城に通したくない。
「おい、それはいくら何でもないだろう!」
「そうよ! 親がいなくてかわいそうだと思ったから、育ててあげたのにこの恩知らず!」
「歓迎されこそすれ、こんな言われ方をする覚えはない!」
イボンヌが口角泡を飛ばす。
城の番兵や使用人たちが彼らを不審そうに見ていることに気付かないのだろうか?
それぞれにわめきたてるので、ここで追い返すのは諦めて、リデルは渋々彼らを城に入れた。おそらく金品の要求だろう。
自分の小遣いから、いくばくか金を渡して追い払うしかない。
クルトは何をしているのだろう。それにしても恩知らずとはよく言ったものだ。
両親が死に悲しみに暮れているリデルから、勝手に家督を乗っ取り、借金のカタに侯爵家に売ったのに。本来ならば、伯父はリデルが成人するまでの後見人にしかなれないはずだった。リデルはここでいろいろなことを学び。過去の理不尽に気が付いた。
しかし、そのおかげで今は幸せで贅沢な暮らしをさせてもらっているし、やりがいのある仕事も与えてもらっている。結果的には恵まれた生活を送っているわけで、リデルは複雑な心境になる。
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