第33話

 庭にフクジュソウが花開くころ、じょじょに気温が上がり始め、やがて雪解けが始まった。長い冬が終わりを告げるかと思うと、気分が浮き立ってくる。


「リデル、お茶の時間にしないか?」

 今日のフリードリヒはいつもと違い、なにやら思いつめたような表情をしている。

 どうかしたのだろうか? なにか、過去の記憶でも思い出したのだろうか? 

 途端にリデルの心臓はどくどくと嫌な音を立てた。

 

 前の彼に戻ってしまうのが怖い。いまの温かな生活を失いたくはないと思った。

 しかし、それは彼のためにはどうなのだろう。自分の幸せばかり願ってはいけない。そう戒める。


 メイドが茶の準備をして下がると、いくぶん緊張した面持ちで彼が口を開いた。

「リデル。私は、自分の過去を探ろうと思ってね」

「え?」

 記憶が戻ったわけではないようだ。


 しかし、もし思い出したら、また筆談になってしまうのだろうか。そしてリデルは再び別邸に移ることになるかもしれない。いろいろと二人で計画した領の未来は……。

 

 だが、彼にしてみれば過去がわからないというのは心細いのだろう。だとしたらリデルに止めることは出来ない。


「そうですか」

 リデルは感情を押し込め、淡々と返事をする。


「それで、リデルに手伝って欲しいのだ」

「え? 私に……ですか?」

 意外に感じた。


「一緒に私の過去を探してほしい」

「しかし、それはとてもプライベートな問題で、私が踏み込んでもかまわないのでしょうか?」

 フリードリヒが驚いたように目を見張る。


「何を言っているんだ。私たちは夫婦ではないか?」

 今の彼はそういう考えなのかもしれない。だが……。


「私は以前、旦那様とはほとんど交流がありませんでしたが、以前の旦那様ならば、きっと嫌がるはずです。だから、それはやめておいた方がいいと思います」

 リデルはきっぱりと言った。記憶のない彼に付け込みたくはない。


「リデル、以前も今も私は私だよ。そんなに前の私は怖かったかい?」

 いろいろな噂もあったうえ、端正ではあるが冷たい容貌をしていたので怖かった。何より、あの頃の彼はまとう空気が常にピンと張り詰めていた。


「はい、少しばかり」

 控えめに伝える。


「じゃあ、私が君に協力を仰いだと一筆入れておこう」

「いいえ、そこまでしていただく必要はございません」


「そう、なら手伝ってくれる」

 真剣さの中にどこかすがるような響きがある。彼から、頼りにされているのだ。


「……私で、良ければ」

 そう答えるしかない。


「それで、今いる中で一番古い使用人に聞いたのだけれど、私は子供の頃、この城ではなく、この城内のはずれに建っている塔にいたそうだ」


 城壁に囲まれてたこの城はもともと要塞のようなものだったので、物見やぐらのような高い塔がある。


「今は閉鎖されているのですよね?」

 そういえば、ここに来た頃夜にあの塔で明かりがつくのを見たことがある。あれは夢だったのだろうか?


「私が領主になってから閉鎖したそうだ」

「その使用人は旦那様の過去をご存じないのですか?」 

 そこまで知っているのならば、彼に聞いた方が早い気がする。


「あいにくと彼は下働きの使用人なので詳しい事情は知らないそうだ。私は十八歳で家督を継ぎ両親は他界しているうえ、昔の使用人たちには暇を出して、新たにハワードやそのほかの上級使用人を雇ったらしい」

 彼は過去に使用人を一掃していたのだ。


「お話を聞く限りでは、無理に思い出さない方がよいのではないでしょうか?」

 いやな予感がする。


「だが、私はなぜ自分が君にこれほどひどい婚姻の契約を結ばせたのかを知りたいのだ。リデルには何の落ち度もない。私は、己の過去を知ったうえできちんと君に謝罪したいと思っている」


 正直謝罪などどうでもいい。ここの使用人たちは親切だし、リデルとしてはなんの不利益も被っていない。むしろあのまま実家にいたら、別の場所に売られていただろう。


 だが、彼の真摯な瞳を見ていると突っぱねることも出来ない。

「塔を封鎖したということは、過去を封印したということではないのでしょうか。そして現在、旦那様は過去の記憶をなくしているということは、思い出せばつらい思いをするのではないでしょうか。

 私は今のようにいろいろと話し合える旦那様がいいです。また前のような関係に戻ってしまったら、寂しく思います」

 リデルは正直に自分の思いをぶつけた。


「少なくとも君は今の私を受け入れてくれているんだね。そう言ってもらえてもらえて嬉しいよ。無理にとは言わない。だが、私は自分の過去を探し出すつもりだ。そして、謝罪も含めてすべてが済んでから、婚姻の契約を破棄したい」

「え? それはどういう?」

 離縁したいということだろうか。


「その、君とは普通の夫婦になりたいんだ」

「普通の夫婦ですか」

「そうだ。跡継ぎは私たちの子がいい」

 ほんの少し前だったらこの申し出に戸惑っただろうが、今は彼がそう言ってくれるのは嬉しい。だが、過去を思い出した瞬間豹変してしまったらと思うと怖い。リデルの心は激しく揺さぶられた。


「君と一緒なら、私は今のままでいられる気がするんだ」

 一人で彼が自分の過去を探し、リデルの知らないところで思い出し、その瞬間から豹変してしまったらと思うとそれも怖い。


「わかりました。私も協力します」

 リデルは協力することにした。

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