第31話

 リデルには温泉施設について計画があった。まずは女性が使いやすくなるよう改良することだ。そのために安全性が一番で次に清潔であること。


 できれば、寒い冬に利用してほしいが、それには建物の増設も必要で大掛かりになる。


 いずれ、フリードリヒに相談することになるだろう。先ほどは金を出してくれると言っていたし、だが、記憶が戻ったら考えも変わってしまうのだろうか。なかなか悩ましいところだ。これも一筆入れておいてもらおう。血判はなしの方向で。


 それにこれから領の冬支度もあるし、軍備に割いた分もあるので、今年の予算がどのように割り振られるのかわからない。


 しかし、領都が栄えれば、住民の暮らしむきも楽になるのではないかとリデルは思う。

 それに王都からこの城まで来るのに、二日も野営しなくてはならない。そのせいかここに来てから、王都に行きたいとも思わない。道もそれほど整備されているとは言えず、とにかく流通が悪いのだ。

 だから、そちらの問題も解決したかった。


 夫が留守の間、領主代行をしていただけなのに、リデルはいつの間にかこの領地に愛着を抱いていた。



 ◇◇◇



 帰途に就いたのは夕暮れ近くだった。

「リデル、お帰り!」

 夫が玄関ホールまで迎えにきていた。リデルの帰りを待ちわびていたようだ。まるで尻尾を振る大型犬のよう。


「疲れたろう。晩餐の前に午後のお茶にしないか」

 リデルはそのままサロンまでエスコートされた。あのぎこちないエスコートが嘘のようだ。まるで本当の夫婦か恋人同士みたいだとリデルは思った。サロンには、アンドレアもいて少しほっとする。 

 フリードリヒと二人きりでいることに未だ慣れない。


 彼ら三人は一緒にお茶を飲み、食事をし、和やかな夜を過ごした。



 ◇◇◇



 翌朝アンドレアが去っていった。陽気で気の良い彼がいなくなると少し寂しくなる。


 今度は、ハンナが用意した離縁状とフリードリヒが書いた訴状を携えて。偽造なので訴えるつもりだとフリードリヒは息巻いている。


「ああいう輩には、これくらいしないとダメなんだ」

 リデルはそんなことよりも早く養子をもらって跡取り教育をした方がよいのではないかと思う。


 そして迎えた午前のお茶の時間、今日は執務室ではなく、二人でサロンへ行った。

 今までは執務室で適当に済ませていたが、引継ぎも落ち着いてきたので初めて夫婦でゆっくりと茶をのむことになった。フリードリヒは始終機嫌がよさそうだった。思っていたほどぎこちない雰囲気にならなくてリデルは胸をなでおろした。




 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、穏やかな日々が続いた。リデルもこの夫にすっかり慣れたころ、王都から知らせがあった。


 サロンで、午前のお茶を飲み一息ついているとフリードリヒが入って来た。

「リデル、私の筆跡をまねてニセの離縁状を書いた代筆屋がつかまったぞ」

「え?」

 そういえば、フリードリヒが訴えると言っていた。アンドレアが手配してくれたのだろう。

 

「金に困った官吏がやっていたらしい。こういうことはきちんとしないと私に何かあったときに困るのはリデルだからな。もう何があってもやつらはこの領地に立ち入ることは出来ない。罪が明らかになれば、貴族籍から抜け労役につくことになるだろう」


 貴族から一挙に罪人になるということだ。


「あの、旦那様はそれでよいのでしょうか。ご親戚なのに」

「もともと遠縁であるし、跡継ぎのいない状態でまた彼らがきたら君が苦労する」

「それならば、早くに養子をもらわなければなりませんね」

 跡継ぎの心配もなくなるし、おかしな親戚が押しかけてくることもないだろう。


「いや、そのことなのだが、リデル、もう少し待ってはくれないか?」

 フリードリヒが切実な表情で訴えてくる。

「え?」


「お互いに分かり合う時間が欲しい」

 そういわれてみれば、確かにそうだ。今の彼はきちんとリデルと会話をしてくれる。養子の教育方針も話し合えるかもしれない。


「わかりました」

 彼がこのままかわらないといい。再び筆談に戻ってしまったら、それはそれで寂しい気がする。リデルは、時には姉のような気持ちで危なっかしいフリードリヒを見守っていた。


「それで、リデル、君はこの間、王都からここまで来るのに宿がなくて不便だと言っていただろう」

 話題が変わってほっとする。


 ここの領地は広いのに街道沿いに宿屋がない。もちろん、夜通し馬を走らせるというのならば別だが、屈強な軍人でもない限り普通の人にそんな体力はない。


「とても不便だと思います。女性が旅をするのは危険ですし、領都に旅人が来ることはほとんどありません。細工師のフィーもここまで来るのに苦労したようです。それに気軽に王都に行くこともできません。このままでは街に店や宿が増えたとしても人は来ませんね」


 小さな領地ならば領主館が宿代わりになることもあるが、これだけの規模の領地で宿屋がほとんどないというのは異例だ。それもこれも戦争のせいなのだが……。


「君の言う通りだ。それに王都からの情報が遅れがちだ。だから、君がこの間言ったように宿屋があったほうがいいと思う。それで王都へ向かう街道に宿屋を一軒試験的に経営してみるのはどうだろう?」

 それはまさにリデルも考えていたことだった。


「ぜひ! そうすれば、工房にも人が集まると思います」


 資源はあるのだが、人材不足が大きな悩みだったのだ。大きくしたいのはやまやまだが、辺境の領地なので人がなかなか集まらない。フィーはたまたま運よく来てくれただけだった。


 それに温泉の件もそうだ。掘削や整備の技術はあるのに圧倒的に人手が不足している。


「そうだな。現在領都にしか卸していないが、街道を整備し王都の行き来が楽になれば、もっと販路も広げられるし利潤も増えるだろう」

 考え深げにフリードリヒが言う。


「ええ、私も王都のようすを見てみたいですし、ここにいては今何が流行っているかもわかりませんから」

「それらば、一緒に王都へ行こうか?」

 なぜかフリードリヒが目を輝かせて聞いてくる。


「まさか、今はまだそこまでは。旦那様の体調も万全とは言えませんし、予算の方も」

 記憶がないという不安要素があるうえ、性格がまるで違う。


「予算は問題ない。報奨金が出たから、新しい事業にはそれを当てる」

 思い描いていたことがこんなに早く実現するとは思わなかった。これから忙しくなるだろうが、その分楽しみも増えた。


「私は結婚してから、君に苦労をかけっぱなしだね」

 フリードリヒがしんみりとかみしめるように言う。


「そんなことはありません。実家にいたころよりもよほど楽しいですし、幸せです」

 フリードリヒが驚いたように目を見張る。

「そうなのか?」

「はい。何といってもここの温泉は最高ですから」

 彼の表情がわずかに曇る。


「君は、本当に今まで随分と苦労してきたんだな」

「それほどでもないですよ」

 そんなふうに思われると困ってしまう。少なくとも両親が健在な頃は愛されて幸せだった。


「私はもう戦争に駆り出されることもないだろうし、外交も第二王子から温厚な第三王子に引き継がれたので、戦争が起きることはない」

 それを聞いて安心した。


 その後、二人は冬支度が始まる前に宿屋の計画を立て、準備を整えることにした。


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