第30話

「とりあえず執務室を調べてみたが何も見つからない。だから、私が子供のころにつかっていた部屋とか、使われていない部屋を探してみようと思う」

「それは城を調べてみるということですか?」

「ああ、城は一通りざっと調べてみたが、これと言って手がかりはなさそうだ」

「ええ、この広い城を全部見て回ったんですか?」

 驚くべき行動力だ。


「あまりにも部屋数が多いから、くまなくと言うわけにはいかないが、とりあえずは。君はこの城に住んでいて何かきづかなかったか?」

「私は一階と二階の執務室と自分の部屋くらいにしか行きませんでしたから」

 驚いたようにフリードリヒが言う。

「それはまたどうして」

「旦那様がお戻りになれば、また別邸に行く身でしたので、関係のない場所に立ち入るのは失礼かと思いましたので」


「リデル、肩身の狭い思いをさせて本当に申し訳ない」

 彼がしょんぼりと頭を下げる。


「いえ、そんな意味で言ったわけではありません。実際仕事が忙しかったですし、そんな暇ありませんでしたから」

 興味もわかなかった。

「君は私が冷たい仕打ちをしたのに、誠実に仕事をこなしてくれていたのだね」

「そんなことはありません。ものすごく待遇はよかったと思います。旦那様との会話は筆談でしたけれど。お留守の間は工房を作ったり、温泉を整備してみたりといろいろと楽しみました」

 リデルは微笑む。ハワードと話し合ったり、ドロシーに意見を聞いたりと本当にいろいろと楽しかった。職場としても生活の場としてもここは最高だ。


「君は今手掛けている施設をもっと大きくしたいだろう? だったら、二人で頑張ろう。だが、君が一人でやりたいというのなら、私は資金だけでも援助させてもらうよ」

 夫はあくまでもリデルの思いを尊重してくれる。

「ありがとうございます」

 リデルの言葉に、フリードリヒが嬉しそうにわらう。


 しかし、こんなふうに親切な申し出を受けるとどうしても考えてしまう。

「旦那様は、今記憶がなくて心細いですか?」

「それはもちろん多少は心細いが、リデルもいてくれるし、屋敷の使用人たちは誠実で働き者だし、トニーも頼りになるから、大丈夫だ」


 もし記憶が戻って以前のようにリデルを拒絶し始めたら、不便……というより、傷ついてしまいそうな予感がする。


「……時間に任せてのんびり過ごされてはどうでしょう?」

 これはリデルの身勝手な思いなのだろうか。彼にしては不安なわけで、妻として何か協力すべきなのかもしれない。


「リデルは、前の私より今の私の方がよいか?」

 そういわれても困る。


「……私は前の旦那様をよく知りません。あまりお話したことがなかったので、だから答えようがありません」

「そうか」

 と言って彼は頷いた。


 リデルに彼を止める権利はない。しかし、以前の彼が感情を抑圧していたのだとしたら、相当な出来事があったと予想されるので、わざわざ過去を思い出すことはないのではとも思う。


 ギルバートの裏切りを知る前のリデルが幸せだったように。知らないでいれば楽しく暮らせることもある。いったいどちらが彼のためなのか、それとも自分のため? リデルの気持ちは揺れ動いた。


「リデル、私は君に対して非常に失礼な契約を結んでいる」

 フリードリヒがぽつりと言う。


「いえ、私は雇用契約と割り切っていたので気にしていません。それにお小遣いはたくさんにいただいています」

 リデルがそう言い切ると彼は少しショックを受けた顔をする。


「そういう問題ではないだろう? 妻として夫が自分の親戚から養子をもらうというのはどうなのだ? 随分と馬鹿にした話ではないか。そういう場合社交界で悪く言われるのはたいてい女性である君ではないか」

「いえ、そのことに関しては旦那様が、その……戦争による傷で……子が出来なくなったと」

 いいづらくて口ごもる。


「ええっ! そうなのか!」

 大きく目を見開いてがたりと席を立つ。体が大きいのでちょっと怖い。


「い、いえ、本当のところは存じ上げません。自分に責任があることにして私のことは守ってくださるとおっしゃっていました」

 しかし、フリードリヒはわなわなと震えている。


「なんて、ことだ。医者から話を聞いた方がよさそうだな。そうだ。ちょっとトニーに聞いてくる。彼は寄宿舎時代からずっと私と一緒にいたそうだから何か知っているかもしれない」


「旦那様、アンドレア様は今湯殿にいらっしゃいますよ。お出になってからになさったらいかがですか」

 またも夫が突っ走ろうとしている。


「ならば、私も一緒に湯につかってくる。悪いが君は書類の整理を続けてくれ」

 そう言い残すと青い顔をして部屋から出ていった。余計なことを言ってしまっただろうかとリデルはどきまぎした。




 しばらくすると、湯殿に入ったせいか、すっきりした顔で夫が戻って来た。

「大丈夫だ、リデル、私には何の問題もないようだ。医者にも確認してきた」

 上機嫌だ。

「それは……」

 よかったですねとでも答えればよいのだろうか? 結局何と答えてよいのかわからなくて、リデルは顔を赤くした。


 彼女のようすに気づいた。夫が慌てる。

「済まない。女性にこのような話を失礼した。ああ、それからトニーは明日も泊って行ってくれるそうだ」

 それは助かる。夫婦だけの食事はどうも気づまりだ。そこで、一つ咳払いをするとリデルは、明日の予定を告げた。


「私はこれから、川の温泉の様子を見に行きたいのですが、よろしいでしょうか?」

「それならば、私も」

 フリードリヒが早速ついてこようとする。


「旦那様はお客様のお相手もおありでしょう。それに今日は女性から見てどのような温泉が使いやすいかを検討したいので、ドロシーを連れていきます」

 利用者の声も聴きたいのだ。フリードリヒがいると彼らが緊張してしまい、率直な意見がききづらい。


「うん、そうだね。わかった」

 目に見えてがっかりした様子でフリードリヒは頷いた。

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