第29話
翌朝、来客があった。
ドロシーが知らせに来たので慌てて身づくろいをしていると、客はアンドレア大佐でフリードリヒが出迎えているという。
それを聞いたとたん、リデルは緊張感に包まれた。彼は約束通り遺言書を持ってきたのだ。もしかしたら、これをきっかけに離縁になるかもしれない。
そんな覚悟を決めて二人がいる食堂に入ると、彼らに笑顔で迎えられた。
アンドレアに礼を言い挨拶を終えてからリデルは本題に入った。
「それで、遺言書にはなんと書いてあったのですか?」
「ああ、まだ開いていないよ。リデルと一緒に見ようと思ってね」
フリードリヒが答える。
「え?」
「私は、君と信頼関係を築いていきたいと思っているんだ。だから開封するときは一緒に」
照れながらフリードリヒが言う。
「はい……ありがとうございます」
そういわれて悪い気はしない。
それから、三人は和やかな空気の中で食事を終えた。
リデルが再びアンドレアを引き留めると温泉が気に入ったのか泊っていってくれることになった。
どうもフリードリヒと二人だと、落ち着かない。アンドレアはフリードリヒの扱いに慣れていて二人は気安い調子で話しているので、ほっとする。
それから、アンドレアは旅の疲れをいやしに湯殿へ行き、二人は執務室に移動して遺言書を開封した。
内容は婚姻の時に交わした契約書と変わらないが、追加事項があった。
まず跡取りの指名だ。
「私は他国にいる親戚の子供を後継にしようとしていたようだね」
「他国にも親戚がいるのですか?」
「この執務室にも書類があり、確認した。それによると彼の家は子だくさんのようだ。ああ、それから、リデル、ここを見てくれ。君に後継者の育成を頼んでいる」
「まあ、本当に……」
驚いた。フリードリヒはなぜかリデルを信頼してくれていたようだ。
「それから、財産分与について書かれている。私は君に別邸と財産の三分の一と領内の土地を幾ばくか与えている」
「ええ!」
リデルは驚いた。この家の資産はだいたい把握している。三分の一ももらえたら一生食うに困らない金額だ。そのうえ土地家付きだ。
「どうして、旦那様は私にこんなに良くしてくださっているのでしょう?」
「だから、言ったじゃないか。私は君と離縁などするつもりはないと。それに君を気に入っていたのだと思う。おかしいと思ったんだ。君から、送られてきた手紙は戦場であるにも関わらず大切に保管されていた。それから、君が送ってくれた押し花も」
「え……」
記憶がなくなる前のフリードリヒがどういう人だったのか全く分からなくなってしまった。冷淡な人ではなかったの……?
「それに、ほらここを読んで。あの親戚たちは相続人から除外している。つまり縁を切っているのだ。ほら、ここにハンナの名もある。やはり君と離縁してあの女と結婚するわけがないのだ。私が安否不明なのを聞きつけて押しかけてきたのではないか? ここは王都との交通が不便で何かと情報が遅れがちだ。まったくなんて奴らだ」
それを聞いてほっとした。
「ならば、旦那様がここにいる以上彼らが来ることはありませんね」
「そうだな。この領地で無体を働いてくれたから、そのうちサムが入っている牢にぶち込んでおこう。たとえ私がいなくても、もう二度とこの地は踏めないようにしてやる」
アイスブルーの瞳が冷たく光る。やはり、フリードリヒはフリードリヒなのだ。この冷たい瞳にこめかみの傷をみるとどうにも落ち着かない。そしてここを追い出されたサムが牢にぶち込まれていたという新事実が明らかに。まあ、剣を振り回しハワードをはじめとする使用人たちを傷つけたのだから、リデルに異論はない。
フリードリヒは記憶がないにも関わらず早々に城の使用人たちを掌握しつつある。統率力があり、もともと領主の器なのだろう。性格は真逆に変わったようにみえるが、優秀であることには変わりがないようだ。
軍人としてもやはり秀でているのでは……? 使いものにならなくなったとはにわかに信じがたい。
「えっと、それで牢にぶち込むというのは?」
まずは彼の不穏な発言から問いただす。
「もちろん、侮辱罪と文書偽造の罪だ。代筆屋も探し出す。私に離縁の意志がなかったと君が納得するように証拠固めはするつもりだ」
そこまでもしなくてもという言葉を飲み込む。とりあえずハンナの右腕をその場で切り落とすのは思いとどまってくれたわけだし。
「……なるほど」
結婚生活は続行のようだ。
「しかし、私が記憶をなくす前の手がかりがない」
「手がかりですか? 使用人や軍の方にお話を聞いたのではないのですか?」
「ああ、聞くには聞いたが、軍では大方の者が無口で冷淡だったと言っている」
何かフォローしなくてはと思う。
「約束は必ずお守りになる方です」
「それから?」
「……」
よく知らないので、何と答えてよいのかわからない。
「トニーには記憶がなくなる前と後ではまるで人格が違うと言われた」
それにはうなずける。
「確かに受ける印象は今の方が柔らかい感じがします」
以前は普通に怖かった。
「何か、日記のようなものを書き残していれば、私が、どういう人間だったのかわかるはずなのだが」
「日記ですか……」
以前のフリードリヒが日記を書くようなタイプとは思えない。
「そう日記だ。思うに前の私の行動は矛盾していた」
「そうですか?」
それほど彼を知らない。相談相手が自分でいいのかとさえ思う。ハワードやアンドレアの方がよほど詳しいだろう。
「君に対しても冷たい夫だったことは婚姻の契約からも明らかだ。だが、君から届いた手紙を大切に保管していたり、刺しゅう入りのハンカチや押し花をお守り代わりのように身に着けていたりとやっていることがちぐはぐなんだ」
「え? 押し花まで身に着けていたのですか!」
リデルはこぼれんばかりに目を見開いた。間違ってもそのようなロマンチストな人にはみえない。いや、きっと自領に対する思い入れが深かったのだろう。
フリードリヒは真剣な顔で頷き、重々しく口を開く。
「過去に何かがあったから感情を表に出せなくなったのではないかと思う」
かつての彼に感情があった。
だが、それを奥底に沈めなければならないような何かがあったということだろうか。
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