第26話

 その頃、リデルは一階のサロンで茶を飲みつつ、頭を抱えていた。


(まとめてしまった荷物をどうしよう)


 フリードリヒの記憶はいつ戻るかわからない。ならばほんの少し荷解きをして、服を着まわそうかと思った。贅沢はしていないつもりだったのに本邸にいる間にいつの間にか荷物は増えてしまった。


 とりあえず執務室にはフリードリヒがこもりっぱなしなので、やることがない。整備した温泉は気になるが、親戚がうろつく家から、離れるのも怖い。帰ってきたら、リデルの方が出入り禁止になっていたらと気がきではない。


 ポットから二杯目の紅茶をとぽとぽと注いでいると、バンと大きな音を立て、サロンの正面扉が開かれた。


 そこには怒りに顔を上気させたハンナが立っていた。何かあったのだろうか? 怪訝に思い首を傾げていると、彼女はリデルのもとへずんずんとやってくる。


「ちょっと、あんた、いつまでここに居座るつもり?」

 ハンナが突然怒りを爆発させた。


「いつまでと言われても……」

 それはこっちが聞きたい。彼女たちこそいつまでここにいるつもりなのだろう。


「あんたが、出て行ってくれないとこっちが困るのよ。いつまでたってもフリードリヒ様と結婚できないじゃない!」


「そうは言われても、旦那様からここから出るなといわれているので」

 その時パンと乾いた音が響き、リデルの頬が熱を持った。


「え……」

 かっとなるより、呆然とした。なぜ、彼女に頬を張られたのかわからない。

「今すぐ出ていきなさいよ!」

 そう叫ぶとハンナはリデルの胸ぐらをつかみゆさぶった。突然振るわれる暴力にリデルは驚きなすすべもない。


「痛い!」

 そう叫んだのはハンナで、ふっとリデルの体は軽くなり反動でソファに倒れこんだ。

「いったいどういうつもりだ。私の妻に何をする!」

 フリードリヒの声に顔を上げるとハンナが腕をねじり上げられていた。


「旦那様!」

 リデルの顔を見たフリードリヒの目が見開かれる。


「リデル、頬が赤くなっているではないか。おのれ、貴様、なぜリデルを殴った!」

 怒髪天を衝く勢いに、リデルまで怖くなる。それなのにハンナはふてぶてしい態度だ。


 リデルは震えながらソファにしがみついた。

「だ、誰か」

 弱々しい声で使用人を呼ぶ。そして、入ってきたのはなぜか領兵たち。フリードリヒはハンナを突き出し彼らに告げる。


「おい、この娘の右腕を切り落とせ」


 リデルは腰が抜けそうになった。しかし、ここで恐慌を起こしているわけにはいかない。


 ハンナは恐れるどころか口汚く使用人や兵を罵りながら、引きずられていく。

「やめてください。旦那様!」

 リデルは叫んだ。

「領主の妻を傷つけたのだから、その腕を切り落とすのが道理。これは領主に対する侮辱だ」

 そこには出会った頃の冷たいフリードリヒがいた。


「そんなこと当然のはずないです。お願いやめて!」

 リデルは悲鳴を上げ、連れ去られるハンナをかばった。何事かとハワードやドロシーもやってくる。


「なぜだ、リデル。侮辱され、傷つけられたのだぞ。当然の罰だ」

 しかし、フリードリヒは受け付けない。


「何を言っているのよ! いい加減にして。ここは戦場ではないのですよ。将来のある娘の腕を切ってどうするというのです! どうしてもというのなら、私はあなたの妻をやめます。そうすれば、彼女が領主を侮辱したことにはならないでしょう?」


 我ながら、筋が通らないことを言っている自覚はあったが、ここは何としても彼の凶行を止めなければ。頬をうったからといって腕を切り落とされるなど許されるわけがない。するとフリードリヒは兵に目を向けた。


「刑は中止だ。今すぐこいつを城から叩き出せ」

 彼はそういって怒りを鎮めるように肩で息をし、踵を返した。とりあえずはほっとする。


 ハンナは番兵に引きずられながらもまだわめいている。

「ちょっと、冗談じゃないわよ! 私の荷物はどうなったのよ」

 確かに、彼女に荷物を置いて行かれても困る。捨てるだけなのだから。


「ドロシー、手の空いているものに彼女の荷物をまとめるように言ってくれる?」

 すると珍しくドロシーの顔が曇る。


「奥様のご命令とあらば、しかし、一言だけいわせてください! あの人を何の罰もなくここから追い出すだけでいいのでしょうか?」

 普段は穏やかな彼女の激しい一面に驚いた。


「そうよね、あなたたちも嫌な思いをしているわよね」

 リデルは彼女の気持ちに寄り添った。

「いえ、違います。奥様が大変ご苦労されていました」

 ドロシーの気持ちに胸が熱くなる。彼女はリデルの為に腹を立ててくれているのだ。

「それでも、禍根が残るようなやり方はよくないと思うの」

「禍根が残る……ですか」

 残酷で野蛮なやり方はよくないと思うのだが、リデルは慎重に言葉を選ぶ。

「ええ、一生体に残る傷をおったら、旦那様は恨まれるでしょ? だから、そういうやり方はあまりよくないと思います」

 するとドロシーが驚いたように目を見開く。

「奥様は、先々のことまで考えて……。私、これからも奥様についていきます。荷物は私が責任を持って今すぐまとめます!」

 なぜかドロシーがきらきらした目をむけてくる。少し居心地が悪い。


「この偽善者、いい気になってんじゃないわよ!」

 リデルをののしる声が聞こえた。フラニーとオニールだ。フリードリヒがいないとすこぶる強気になる。


 しかし、こちらをにらみつつも彼らは荷物を両手に持ち、粛々と玄関に向かっている。今からこの屋敷を追い出されるのだ。

「おい、やめないか」

「奥様に失礼だ」


 番兵や使用人たちに、怒られている。彼らもうっぷんがたまっていたのだろう。周りを帰還した領兵たちに囲まれ、エントランスへと引きずられていく。

 

 だが、ハンナは納得していないようで、

「あんたに庇われたなんて思っていないから。あんたが言わなくたって、フリードリヒ様は私の腕を切り落としたりしなかったわ。ほんと大っ嫌い」

 大声で喚く。

 あの状態のフリードリヒが本気ではないと? 心底呆れた。

「私もあなたが大嫌いです。だから二度と私の前に姿を現さないで」


 そういうとリデルは彼らに背を向けた。


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