第27話
サロンをのぞくとフリードリヒが一人でポツンと座っていた。その背中には哀愁が色濃く漂っていて、素通りをゆるさない。
仕方がないので、リデルは声をかけることにした。
「旦那様、先ほどは私の願いを聞き届けてくださりありがとうございました」
するとはじかれたようにフリードリヒが顔を上げる。
「じゃあ、私と離縁したりしないよね?」
先ほどとは打って変わって、まるで叱られた子犬のような目を向けてきた。リデルは思わず後退りする。
「はい、旦那様が望まない限りは」
「それは本当か? リデル」
ずかすかと近寄ってきて、ぎゅっと両手をつかまれた。記憶を失ってからというもの、フリードリヒは何の躊躇もなく触れてくる。以前はエスコートすら不慣れでぎこちなかったのに、あの人嫌いというか女嫌いは何だったのだろうかと思ってしまう。
「はい、もちろんです。私には帰る場所などありませんから」
「帰る場所がない? 実家は?」
「ああ、そちらに関しての書類はありませんでしたか? 確か旦那様は身上調査をしたとおっしゃっていたので詳細なものをお持ちだと思いましたが……」
フリードリヒが不安そうに眼を瞬く。
「……それならば、少し事情をお話ししましょうか?」
戦場から帰って来た記憶のないフリードリヒは、頼る者がいないせいかリデルに好意的だ。
それが、実家の資料を見た途端、財産目当てかとリデルを見る目が変わるのも怖い。
先ほどの親戚たちへの態度を見るとひやりとする。苛烈な人だ。たとえ、記憶を失ったとしても根底にあるものは変わらないのだろうか。しかし、リデルは以前のフリードリヒをよく知らない。
リデルは包み隠さず自分の婚約破棄の件から順を追って話すことにした。書類で見つけていきなり知るよりも直接先に聞いた方がよいだろう。淡々と感情を交えず事実のみを説明すると
「リデル、君はそれほどひどい苦労をしたのか」
被害者ぶって話したつもりはなかったので、リデルの境遇を嘆く夫にびっくりした。
「いえ、それほどでも」
世の中には年老いた高位貴族の妾として売られてしまう娘もいる。彼に嫁いだことで、それに比べれば仕事も与えられて潤沢な小遣いまでもらえて幸せだったと思う。
ここから追い出されたとしても秘書として働けるスキルがあるかもしれないとひそかに自負していた。
「それで、今君の実家はどうなっているのだ」
「はい、旦那様に言われた通り、従兄にしつこく手紙を書いたところ国に戻ってきたようです。それからは音信不通なのですが、彼ならばしっかりしているので、おそらく大丈夫かと思います」
「そうか、あちらが何か無理難題を言ってくるようならば、いつでも私に相談してくれ。リデルの力になろう」
何とも……頼りになる夫である。記憶はないけれど。
「それで、これから二人で昼食でもどうだ」
「はい」
「二人きりの食事は戻ってきて以来初めてだな」
そういうフリードリヒは照れくさそうに微笑む。いや、戻ってきて以来ではなく、本当に初めてだ。彼のその反応にリデルは戸惑った。どう返していいのかわからない。
「えっと……そうですね」
「食事がすんだら、一緒に執務室に行こう。質問もあるし」
「承知いたしました。それでしたら、執務室で昼食をとったらどうでしょう? その方が時間を有効に使うことが出来ます」
今まで親戚がいたのは鬱陶しかったが、彼と二人きりというのも何となく気まずい。間が持たない気がする。
「そ、そうだね」
フリードリヒはなぜか目に見えてがっくりした。
それから二人は執務室で、淡々と書類の引継ぎを行った。フリードリヒから質問されれば、リデルが答えるという形だ。
午後のお茶の時間も執務室で、仕事をすることになった。フリードリヒは、知識はあるが、記憶がないので、新しく覚えなおさなければならないこともあるし、自分が以前作成した書類を把握できるわけでもない。
フリードリヒからの指示書に従って一部の仕事をしていたリデルとは違う。彼は時にハワードに教わっていた。
その間リデルは滞りなく仕事が動くよう働かなければならない。結局、領主代行のまま、彼がすべての仕事を把握出来るようになるまで、手伝うことになった。
なるほど、これではフリードリヒもすぐに離縁などしないだろう。しかし、仕事が軌道に乗り、記憶が戻り、リデルがいらなくなったらどうするのだろうとふと考える。
そこで中途までやっていた温泉の設備を思い出した。近くの領民が使用していると聞くが、男性ばかりで、女性の利用率が少ない。やはり、綺麗で安全な施設が必要なのだろう。
久しぶりに現地へ行って様子を見てみようと思った。それによって、女性も利用しやすいように考えよう。
夫の仕事が一区切りついたようなので、リデルは声をかけた。
「旦那様、明日私は、温泉と工房の様子を見に行きたいのですがよろしいでしょうか。お仕事には支障のないようにします」
「それなら、私もついて行ってもいいか?」
フリードリヒが楽しみを見つけた子どのような笑顔をみせる。
断れない。
「もちろんです」
「楽しみだな。リデルが始めた事業」
「それほど大げさなものではございません。細工の売れ行きは順調ですが、温泉の利用者が思いのほか少なくて」
「温泉の利用者が少ない? それは意外だな。あれほど素晴らしいものはないのに」
彼が驚いたように言う。表情が豊かで調子がくるってしまう。
「では、また明日」
なんとなく居心地の悪さを覚え、リデルは席を立つ。
「ああ、遅くまでありがとう。助かったよ。またよろしく頼む」
そういってフリードリヒは椅子を立ち、リデルのそばまで来て右手を差し出した。
なぜか、彼は仕事終わりにリデルに握手を求めてくる。不思議だ。
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