第22話

「フリード、少し落ち着け! 奥方が困っているではないが」

 慌てて、軍服姿のトニー・アンドレアが止めに入る。

 そのおかげでなんとかフリードリヒを引き離せた。


「どうしてだ。トニー? 彼女は私の妻だろう。久しぶりの再会だ。君は私の友人だと言っていたのに、なぜ邪魔をする」

 そういってフリードリヒがアンドレアを睨む。


「いや、お前、奥方が戸惑っているのを見てみろ」


 フリードリヒが不安そうな視線をリデルに向けてくる。この表情豊かな人は誰? リデルは後退りする。


 悪いこともいいことも一気に起こり混乱極まっているところに、さらには別人のような夫。リデルはパニックに陥った。


 するとアンドレが立ち上がり、リデルに挨拶をする。


「ウェラー閣下の部下で、トニー・アンドレアです。夜会のおりは挨拶させていただきましたが、覚えておいででしょうか?」

「もちろんでございます。アンドレア大佐、遠路はるばるお越し下さり、ありがとうございます。ですが、この方は本当に私の旦那様でしょうか?」


 自分でも間抜けな質問だと思うが、リデルが問うとアンドレアが悩ましそうに額に手を当てる。


 うっかり偽物を連れてきたのだろうか。それともリデルが親戚に困惑しているのに気づき替え玉を連れてきてくれたのだろうか?


「奥様、非常に驚くべきことですが、彼は間違いなく私の上司であり、友人であるフリードリヒです。彼とは養成学校の寄宿舎時代から一緒ですが、古傷がすべて一致しております」

「は?」


 まじまじとフリードリヒの顔を見るとこめかみの薄い傷も健在だし、特徴的なアイスブルーの瞳も砂色の髪も彼そのものだ。

 いくら姿形の似ている人間がいたとしても古傷や瞳の色まで似せることなど出来ない。


 フリードリヒがアンドレアに促され、親戚にサロンから出るように命令すると不承不承ながら彼らは従った。

 人払いをした後、リデルは驚愕の事実を聞くことになる。


「フリードリヒは、記憶を失い戦場をさまよっているところを保護されたのです。状況から言って部隊が敵軍によって分断されたとき、矢でいられ落馬したようです」

「そのショックで記憶をうしなったということですか?」

 アンドレアが深く頷く。


「ええ、それはもうきれいさっぱり。家名どころか名前まで覚えていない状態でした。それで一時期行方不明者リストに載ってしまったのです。しかし、医者の話ですと手続き記憶は残っているので領地の経営には差し支えないと思います。もちろん奥様の支えがあればの話ですが」

「手続き記憶ですか?」


「ええ、日常生活で必要になる記憶です。医師が診たところによると読み書き計算教養にはなんら問題ないようです。もちろん、ダンスも覚えていますし、乗馬や剣術にも何ら問題はありません」

 奥様の支えがあればと言われても、彼はリデルと離婚しようとしていたわけで。アンドレアにどこまで話したらよいのかと悩んでしまう。


 しかし、黙っているわけにもいかない。そして、フリードリヒはというと先ほどから嬉しそうにリデルをにこにことみている。

 彼はなぜか腕が触れ合いそうなほどごく近くに座っていた。あれほど、人に触れるのは苦手だと言って、慎重に距離を取っていた人なのに。


「あの……、お疲れのところ、非常に言いにくいのですが、このまま黙っているのも旦那様の弱みに付け込んでいるようで嫌なので言いますね」

 リデルがそう前置きするとフリードリヒは不安そうな顔をする。


「なんだい、リデル」

 温かみのある声に安心するより、身震いした。やはり偽物か? 彼らしくない。

 それからリデルは先ほどハンナから受け取った離縁状を出す。ほんの少し涙で濡らしてしまった。


「旦那様は私と離縁するおつもりだったようです。ハンナ様がこれを旦那様からあずかったと言っておりました。後は私のサインを入れるだけとなっております。つきましてはその条件に付いてお話したいのですが」


 リデルの告白に、その場の空気がぴしりと固まった。


「え、そうなのか? フリード? いい妻がきたといっていたじゃないか!」

「なぜだ、リデル? 私にそんなに不満を抱いていたのか!」

 トニーが驚き、フリードリヒが叫ぶ。


「いえ、これは私が用意したものではありません。旦那様が書き込んでハンナ様に預けたものです」

「そういえば、先ほどハンナという娘はお前の妻のような素振りだったな?」

 アンドレアが不審げに言う。


「ああ、あの図々しい女か。冗談ではない。私の妻はここにいるリデルだ」

「いや、だが、これは間違いなくお前の筆跡だろう?」

 呆れたようにアンドレアが言う。


「そんな馬鹿な! こんな美しい人と離縁だなんて。リデル、頼む、私を見捨てないでくれ!」

 がしっとフリードリヒがリデルの腕をつかむ。

 またしても彼は何の躊躇もなくなく触れてきた。しかも捨てられた子犬のような視線を向けてくるので、振り払えない。


 リデルはすっかり変わってしまったフリードリヒをどう扱ってよいのかわからない。夫に話を振ってもらちが明かなそうなので、アンドレアに聞いた。


「あの、アンドレア様。旦那様の記憶が今後戻ることはあるのでしょうか?」

「そうですね。明日にでも戻るかもしれないし、徐々に思い出すかもしれないし……。一生忘れたままかもしれないというのが医者の話です」

「……なるほど」

 答えつつもリデルは混乱の極みにいた。結局何も解決していない。


「友人として彼の名誉のために言っておきますが、記憶のある頃の彼は奥様を悪くいったことはないし、むしろできた人だと言っていた。そして、親戚のことは明らかに警戒していました。

 それに夫人は使用人たちにかなり慕われているようだから、しばらく彼のもとにいてほしいのですが。おそらくこの書類は何かの間違いでしょう」


 アンドレアの言葉にフリードリヒが子供のように何度もコクコクと頷く。しかし、本人直筆の離縁状に間違いも何もないのではと思う。


「頼むよ。リデル、きっと何かの誤解なんだ。私が君のような魅力的な女性と離縁なんて考えるわけがないんだ」

 嬉しく思うより、その変わりように寒気すら覚えた。


 しかし、ここに置いてもらえるなら、それはそれでありがたいことだ。

 

 で、結局本物?


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