第21話

「ハンナ、こちらにいらっしゃい。私の娘なの」

 フラニーが自慢げに紹介する。また親戚の人数が増えてしまった。今だって持て余しているのに、この女性がわがままでないとよいのだが。


「あなたが、リデルね。ふふふ、随分偉そう」

 そういってハンナが余裕の笑みを浮かべる。嫌な予感がした。


「ねえ、こんなものをフリードリヒ様から預かっているのだけれど」

 目の前に一つの書類が差し出された。


「あなたが、旦那様から預かったのですか?」

 そんな話は初めて聞いた。フリードリヒは何も言っていなかった。訝しげに眉根をひそめ受け取ってみると……。


「これは……離縁状」

 書類には見慣れたフリードリヒのサインがはいっていてすべての事項は書き終えている。後は、リデルがサインをすれば完了だ。筆跡から、間違いなく夫の手によるものだ。


「フリードリヒ様は、戦場から戻り次第、あなたと離縁するつもりでいたの。あなた何も聞いていないの?」


 不思議そうに首を傾げるハンナの間に前に、今まで精いっぱい張ってきた虚勢が、ガラガラと崩れ落ちた。ショックで、ふらりと体がかしぐ。


「なぜ……」

 彼は女嫌いではなく、リデルが嫌われていたのだ。


「あら、ショックみたいよ?」

「かわいそう」

 と言いながら彼女たちがくすくすと笑う。

「さっさとサインをして、この城から出ていけ!」

 オニールの怒声が遠くから聞こえる。


(立ち向かわなければいけないのに……)


「奥様! これは何かの間違いでございます! 旦那様にそのようなおつもりは断じてありません。旦那様は、奥様に後を託して戦場にいかれたではないですか!」

 ハワードが必死に言い募るが、一度崩れた心は容易には立て直せない。はらはらと涙が零れ落ちた。張り詰めていたものがぷつりと切れた瞬間だった。使用人がみなリデルを守るように集まってくる。


「奥様ー! 大変です!」

 そのとき門番の大音声が、二階まで響きわたった。

 何事かと皆がそちらを振り向いたとき、目をみひらいたドロシーが門番とともに息を切らせて階段を上って来た。

「奥様! 旦那様が!」

 ドロシーがリデルの涙を見て慌てて駆け寄ってくる。

「どうなさったのですか!」


「ドロシー、まずは奥様にお伝えしなければならないことが」

 門番の声でドロシーがはっとして我に返る。


「旦那様がお戻りです! 奥様、サロンにお越しください。アンドレア大佐が旦那様の付き添いでいらしています」

「よかった……」

 リデルが呟く。これで使用人たちは守られる。


 しかし、親戚一同はドロシーの言葉を聞くと悪態をつき、我先にとサロンへ競うように走っていった。だが、リデルは夫が生きていたと聞いてほっとして一気に腰が抜けた。


 リデルはドロシーとハワードに支えられるように、ゆっくりと一階に降りた。すると一階の廊下には王都から来た騎士と役人が数人待機して、リデルは丁寧な挨拶を受けた。


 夫が帰った来たのなら、安心だ。ほっとしつつも、あの離縁状を見る限り、いよいよ出ていかねばならないのかと覚悟を決める。

 

(ここが気に入っていたのに……、私は好かれなかった)


 実家はリデルを受け入れないだろう。しかし、今はまずは夫の無事を喜ぼう。


 リデルは気持ちを奮い立たせ、夫が待つサロンの扉の前に立った。

すると薄く開いた扉から声が漏れ聞こえてきた。

「あの女との関係は冷え切っていた。その証拠に子供もない。お前は戦争からもどったら、あの女と離婚するといっていた」

 オニールの心無い言葉がリデルの弱った心を突き刺す。


「そうは言われても」


 困惑しきったような夫の声が聞こえる。ここで立ちすくんでいても仕方がない。リデルは勇気を振り絞り、サロンへ一歩入った。


 正面には一年前より少し痩せたフリードリヒが、その右隣にはハンナが妻のようなそぶりで座り、左隣りには付き添いで来たトニー・アンドレアがいた。


 その周りをオニール、フラニー、サムがとり囲んでいる。すでにリデルの居場所はない。フリードリヒはあれほどリデルに触れることを拒否していたのに、ハンナがそばにいても拒絶しない。そのことがなによりショックだった。こぼれそうな涙を堪え、胸を張る。

 とりあえず挨拶をしなければ……。


 しかし、フリードリヒはリデルが入ってきたことに気付くと、弾かれたように立ち上がった。その青い瞳は驚いたように見開かれている。


「お帰りなさいませ。旦那様、ご無事で何より」

 なけなしの虚勢を張り、リデルは優雅に膝を折る。


「君が、リデルなのか?」

「はい?」


 あまり顔を合わせることのなかった妻の顔を忘れてしまったのだろうか。あまりにも薄情というもの。再びリデルは涙ぐむ。


 二人はしばし、立ったまま見つめあった。しかし、彼の頬は上気し、アイスブルーの瞳はきらきらと輝いている。


 確かに姿形はフリードリヒだが、彼にしては表情が豊かすぎる。リデルはショックを受けたことも忘れ、彼をまじまじと見つめてしまった。


「驚いたな。なんてことだ。私の妻はこんなに美しかったのか」

「は?」

 リデルが唖然としている間に、フリードリヒは大股でリデルのもとへ歩いてくると、いきなりひしと彼女を抱きしめた。衝撃のあまり、リデルは金縛りにあったように動けない。


(なぜ? どうして? どうなっているの?)

 リデルはひたすら混乱した。


「リデル、ただいま! 私の女神」

 感極まったように彼が叫ぶ。


「え? ちょっと待ってください! あなた誰ですか!」

(女神ですって?)


 気づくとリデルはそう叫び、彼の腕から逃げだそうと、厚い胸を押し返していた。

 しかし、鍛え上げられた彼の体は微動だにしない。何がなんだかさっぱりわからない。戦場で気がふれてしまったのだろうか?


「誰か!」

 リデルは彼の腕の中でもがき、か細い声で助けを呼ぶ。

 

 ぜったいに姿かたちの似た偽物に違いない。リデルはその時そう思った。

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