第10話
二日後、リデルはフリードリヒとともに、領地へ旅立った。馬車は当然のように別だ。
やはり避けられている。しかし、長旅が終わる一週間後にはその方が気楽でよかったと思った。フリードリヒはドリモア家の恩人ではあるが、無表情な彼と向かい合って話すこともなく長時間同じ馬車で過ごすなど苦痛でしかない。
しかし、なんといってもすごいのが、領に入った途端街道という名の田舎道が続きガタガタと馬車は揺れリデルは馬車酔いに苦しめられた。
さらには宿屋もなくなり、二泊ほど野宿しながら、旅をつづけたことだ。まだ夏だというのに朝晩の冷え込みがつらい。
男爵領も王都から離れていたが、隣の領が栄えていたので、王都に行くのに野宿することなどなかった。
それだけ領土が広いということなのだろうが、未開の地に行くようで心細い。もちろん従者や護衛で来たノースウェラー領の兵たちが気を使ってくれたのでそれほど不自由することはなかった。
王都から旅立って七日目にウェラー侯爵家領都に入った。彼の先祖は古くは蛮族と呼ばれる者たちから、この地を守ったと言われている。
馬車は石畳の道を城を目指して進む。街は大きく寂れた雰囲気ではないが、活気があるわけでもない。
そして領都を抜け小高い丘に向かってさらに馬車を走らせるとウェラー侯爵家の城が見えてきた。ごつごつとした石造りの威容で、城というより要塞に近く、寒々しい感じがする。その奥には物見やぐらのような不気味な塔が薄青い空を突き刺すように建っているのが見えた。
城門をくぐり、そこで二手に分かれる。フリードリヒは本邸と呼ばれる城に向かい。リデルを乗せた馬車は別邸に向かう。これは契約通りではあるが、馬車に乗ったままで夫に挨拶もできなかった。
しかし、別邸の前に降り立ったリデルは驚きに息を飲む。綺麗に整備された庭の先に、三階建ての優美な屋敷が建っていた。
広いエントランスに一歩入ると吹き抜けの空間にシャンデリアがきらきらと光を反射して揺れている。内装は贅を凝らしたもので床は温かみのある寄木細工になっていた。
通されたサロンにはふかふかのじゅうたんが敷かれ、別邸専属の使用人まで用意してくれている。歓迎されているようだ……。
結婚の契約内容が衝撃的過ぎて忘れていたが、確かに彼は妻としてリデルを丁重に扱うと言っていた。
たとえ相手が男爵家の娘であっても、彼は約束を守る人のようだ。
「奥様、荷解きをされたら、お茶になさいますか?」
今日初めて顔を合わせるリデル専属メイドのドロシーが、明るい笑みを浮かべ聞いてくる。
男爵家では従兄が外国に行ってからはメイドたちにはぞんざいに扱われ、洗濯から食事の用意も含め、すべて自分していたのにここではみな感じがよく親切だ。それにとても気が利く。
侯爵の言動は冷たく、長旅の間顔を合わせることもなく、北の薄寒い空の下で暗澹たる気持ちになりかかっていたが、この待遇の良さを考えると悪気はかけらもないのかもしれない。きっとああいう人なのだ。
これなら何とかやっていけるかもしれない。今まで流されるままだったリデルの中に感謝の気持ちが芽生えてきた。
◇
香りのよいお茶と北の地特有の素朴な焼き菓子を楽しんでいるとドロシーが声をかけてきた。
「奥様、長旅でお疲れでしょう。湯あみはいかかですか?」
野宿も含む旅で体は埃っぽいし、疲れ果てていたので、湯あみが出来るのはうれしかった。実家では体をふくだけで、バスタブにつかるなど久しくなかった。
「ぜひ、お願いします」
湯あみの前にと、ドロシーが果実水を持ってきてくれた。とてもうれしい心遣いだ。
「奥様。湯殿の準備が出来ましたので、どうぞ、こちらへ」
「湯殿? バスタブではなくて?」
初めて聞く言葉に戸惑う。
「はい、湯殿はウェラー家の自慢です。ぜひ体験してみてください」
ドロシーはリデルを案内して、一階から地下に降りた。シンとした石の廊下をしばらく歩き、突き当りの扉を開けると、もうもうと湯気が立ち、大理石の床のむこうに、長方形にくりぬかれた広々とした風呂があった。5,6人は楽に入れそうだ。
「こ、これはいったい?」
なみなみと湯を張られた湯殿に目を見張る。
「温泉でございます。古くはこの地で兵士が傷をいやし、また王侯貴族の病後やご婦人の産後の療養に使われていたこともあるそうです」
「なんて素晴らしいの。初めて見たわ」
感激に声が震えた。
「北の侯爵家ではこれがふつうです。一階のゲストルームにも温泉が引いてございます。奥様のお部屋にも小さな湯殿はございますが、二階ですので残念ながら温泉ではないのです」
「え、そうなの? すごいわね。部屋にバスタブではなく湯殿があるなんて」
「もし、温泉のある一階がよろしければ、そちらにお部屋を移しますが」
「いいえ、とんでもない。景色が素敵で気に入っているわ」
それは本音だった。リデルの部屋は庭が一望できる。間違いなく一番良い部屋を用意してくれていたのだ。
「それはよかったです。さあ、奥様、お召し物をこちらへ」
久しぶりに人に世話をされてお風呂に入った。
少し気恥ずかしかったが、三年前までそうした生活を送っていたのですぐに慣れた。
リデルの待遇が明らかに悪くなったのは従兄が留学してからだ。思えば彼があの家の唯一の良心だったのだろう。
ゆっくりと湯につかり旅の疲れを癒した。今までのもやもやした怒りや悲しみが湯に溶け出し、気持ちが浄化されるようだ。立ち上る湯気が心地いい。ずっとつかっていたかったが、湯あたりするからと言われて風呂から上がった。
そして湯上りに準備されている冷たい水。
「すごいわ、至れり尽くせりね」
そのうえ、夫の面倒まで見なくていい。
(これって、幸せ……では。夫の愛を望まなければいいだけなのだから)
横暴だという親戚がちょっと心配だが、これならばおつりがくるかも……。
◇
そして、一人きりの晩餐にはこの地方特有の赤く澄んだ色をしたスープを飲んだ。サワークリームを入れるとせっかくの美しいルビー色が濁ってしまうが酸味もほどよくコクがましてすごくおいしい。肉も出された。素朴な味だが、王宮の食事にも引けを取らないおいしさだ。
北の地では肉は貴重なものだろう。リデルは給仕やシェフに直接感謝の気持ちを告げた。
それから食後の茶を終えるタイミングで、本館からハワードという若い執事がやってきた。二十代の半ばくらいだろうか。ここの主人と違い、常に口元に笑みを浮かべ感じの良い青年である。
「奥様、私が奥様の教育係を担当させていただきます。領地管理に関する授業は明日からということで構いませんか。それとももう少し、ここの領地に慣れてからになさいますか?」
言葉は柔らかく、心づかいを感じ嬉しかった。
「明日から、よろしくお願いします」
そういうことは先延ばしにしてもいいことはない。さっそく勉強を始めることにした。
(夫は十分すぎるほど約束を果たしてくれた。ならば、私も……)
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