第3話
婚約破棄騒動から一月後、夕食後の片づけものをしていると使用人に呼び出された。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
「はい?」
伯父に呼ばれるなど久しくない。幼馴染のギルバートに婚約破棄されて以来だ。できれば顔も見たくない。リデルが戸惑っていると。
「ほら、ぼさっとしてないで、さっさといってくださいよ!」
この家の執事がそういって目を吊り上げた。昔からいた優しい執事は伯父夫婦が家に来た途端やめさせられて、お嬢様といいつつリデルをぞんざいに扱う使用人たちに入れ替わってしまった。
だが、そうはいっても派手好きのイボンヌは田舎の領地にやってくることはなく、たまに会えば威張りはするが、叔母のように取り立てていじめてくるわけでもないので、それなりにうまくやってきた。それがまさか婚約者を奪われてしまうとは……。
伯父の執務室に入ると開口一番言われた。
「実はお前に結婚の申し込みがあった」
寝耳に水だ。婚約破棄された自分は、一生独身かもしれないと覚悟していたからだ。
「本当ですか? いったいどちらから」
この息苦しい家から出られるものならばすぐにでも出たいが、老人の後妻くらいしか思いつかない。
「ウェラー侯爵家のフリードリヒ様だ」
「え? ウェラー侯爵家ですか?」
普通ならば、玉の輿を喜ぶところだろう。だが、ウェラー侯爵の噂は社交界に疎いリデルですら聞いたことがある。
我が国の若き将軍であり軍神と呼ばれ王家の覚えもめでたい一方、陰では戦闘狂と噂されている人物だ。社交界に姿を見せることはまれで、容姿は美しいというが、リデルも見たことはない。
戦争のおかげでのしあがってきた一族といわれ、何かと黒い噂が付きまとっている。しかし、それにしてもドリモア家は男爵家だ。身分違いではなかろうか。
「そのような高位の貴族の方が、なぜ私に?」
「なぜもなにも相手方が望んでのことだ。お前も侯爵家に嫁げて幸せだろう」
「は?」
婚約破棄の傷もまだ癒えてはいない。そのうえ、当主は残虐非道などという噂のある氷の侯爵様だ。資産があるのにもかかわらず今年24歳を迎える侯爵は婚約者すらできたことがないと聞く。
「うちには借金があってね。侯爵閣下はお前を嫁によこせば肩代わりしてくれるという。この話は決まったことだ。明日侯爵閣下が我が家にお越しになられる。失礼のないのようにしろ」
借金があるとは寝耳に水だ。
「そんな……。伯父様、借金とはどういうことですか?」
しかし、伯父は面倒くさそうにリデルを追い払うように手を振るだけでそれには答えない。
「ドリモア家は侯爵閣下には恩がある。だからお前も誠心誠意尽くせ」
「納得がいきません」
「うるさい! 婚約破棄されたお前をもらってくれるというのだぞ。しかも妾や年寄りの後妻になるわけでもない。お前には身に余る話だ」
伯父の言い分は無茶苦茶だ。納得など出来るわけもない。だが、詳細を聞く間もなく、執務室を追い出されそうになった。
そして戸口にはいつの間にかイボンヌの姿が。
彼女はリデルを突き飛ばすような勢いで執務室に入ってきた。
「お父様! リデルが侯爵家に嫁ぐというのは本当ですか! それはつまり、子爵家に嫁ぐ私よりも格上になるということですよね?」
「おい、イボンヌ、お前は何を言い出すのだ!」
伯父が驚いたように言う。
「そんなのおかしいわ! 私と代わることはできないの?」
イボンヌはギルバートを愛していると言っていたし、もうすぐ結婚する身だ。一体何を言い出すのだろう。リデルは驚きに目を見張った。
「お姉さまは、ギルバート様の子を宿しているのではないですか」
すると伯父が目を吊り上げてリデルを怒鳴りつける。
「リデル、いつまでお前はそこにいるんだ。さっさと仕事にもどれ」
「でも伯父様、お姉さまが」
イボンヌが突然ぎゅっとリデルの手を握る。
「リデル、ここにいて。お父様、私はギルをリデルに返すわ。それで侯爵家には私が嫁ぐわ。その方がリデルも幸せよね?」
従姉の言葉に唖然とした。
「お姉さま。それはどういうことです? おなかの御子は?」
「イボンヌ、黙れ! いい加減にしないか! おい、誰かいないか! リデルをこの部屋からつれだせ」
リデルは使用人より、伯父のいる執務室から強制的に追い出されてしまった。
(いったい何が起こっているの? ギルバート様を私に返すってどういうことなの? 明日の朝一番でお姉さまに尋ねてみよう)
不安で心臓がどきどきして、その晩は眠れなかった。
しかし、翌日リデルがイボンヌに会うことはかなわなかった。イボンヌの部屋の前には使用人たちが立ち、近づくことすらできない。彼女自身も部屋に閉じ込められているようだ。リデルの心に一抹の不安がよぎる。
結局リデルは叔母とタウンハウスから引き揚げてきたメイドたちに強制的にドレスを着つけられ、侯爵のおとないを待つこととなった。彼の絵姿もなく、心の準備も何もできていないままで。
きつく締められたコルセットのせいで食欲も失せた昼下がりに、将軍を乗せた侯爵家の立派な馬車がやって来た。
伯父夫妻とともにエントランスで出迎える。
やがて四頭立ての馬車からはマントを羽織った大柄な男性が降りてきた。北方の人間らしく砂色の髪をもち背が高くまだ若い。ほりの深い顔立ちは整っていて美しい。
しかし、辺りを威圧するように睥睨するような冷たいアイスブルーの瞳に、こめかみにうっすらとある刀傷、翻るマントから覗く軍服に腰に佩いた剣、恐ろしさに足がすくんだ。リデルは軍人というものを初めて見た。
侯爵は剣を腰から外すとそれを従者に預けた。それを見てリデルはほっと息をつく。
「これは、これは、侯爵閣下遠路はるばる……」
揉み手で挨拶をする伯父の横を素通りして、かつかつと規則正しく軍靴を鳴らし、無表情でまっすぐにリデルのもとにやってくる。あまりの迫力にリデルは一方後ろに下がる。
(粗相したからって切り殺されることはないよね?)
彼の冷たい眼差しには背筋がぞっとするような鋭さがあった
「あなたがリデル・ドリモア嬢か?」
「は、はい」
温かい日差しをはじくような冷たい眼光に恐れをなし、後退りつつも慌てて挨拶をしようと膝を折るが、それより早く彼が跪く。
「リデル・ドリモア嬢、あなたに結婚を申し込みに来た。どうかご承諾いただきたい」
なんの挨拶もなく本人確認の後、突然結婚を切り出された。そしてリデルには受け入れる選択肢しか用意されていなかった。
「はい」
彼女は引きつる顔と消え入りそうな声で承諾の返事をした。
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