第36話 春がくる

 寒さは徐々に過ぎ去り、暖かい風が頬を撫でる。若緑の新芽が顔を出し、花が咲く。花壇にも木にも花が咲き、どこを見ても色が溢れていた。

 囲むように植えられた桜の花はどれも美しく咲いている。ミツキはそれを何枚かスマホのカメラに収めながら公園のベンチに座っていた。


 普段のような制服ではなく、シャツにニットのカーディガン。学校帰りに寄る公園に私服で来ているという違和感と、これから起こることにそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせる。今は春休みの最中で、そして卒業式当日。

 つまりリョウタが卒業する日。


 空は柔らかな快晴で、花弁が吸い込まれるように飛んでいく。それを眺めながら、彼は送別会のことを思い出していた。

 鳴りやまない拍手の後、息を切らせて走って来たリョウタのこと。卒業式の日、公園で待っていてほしいと言った彼の声と、背後からじっとこちらを見るキョウヘイの視線を昨日のように思い出せる。


 鳥の微かな鳴き声を聞きながら、ミツキは今日の服装を見る。何回も考え、ただでさえそこまで持っていない服をとっかえひっかえし、結局一番最初に選んだベージュのニットカーディガンに落ち着いた。


 おかしくはないだろうか。変なところはないだろうか。

 そんな考えが何度も浮かんでため息を吐く。遊園地の時は気にならなかった服装がここまで気になってしまうなんて思いもしなかった。恋というのは体力を使うものだ。

 朝は早く起きて身だしなみを何度もチェックして、前日に悩んだ服に袖を通す。それだけで心臓がバクバクと鳴っているのが分かって、待っているだけだと分かっているのに酷く緊張する。

 そして何度目かの深呼吸をした時だった。


「っ、お待たせ! 悪いな、待たせて」


 後ろから聞こえた声にミツキの肩が跳ね上がる。振り向けば制服のまま、胸に卒業の証のリボンをピンで留めた姿のリョウタが息を切らして立っている。よほど急いできたのか、肩や髪には花弁が付いたままだった。

「早く切り上げようとしたんだけどさ、写真とか書き込むのとかすげー多くて。待ったろ。ごめんな」

「あ……、いや、ぜんぜん」

 嘘だ。本当は一時間以上この公園にいる。待ち合わせよりもかなり早い時間に着いてしまったから。

 そう言いながら立ち上がってからふと、リョウタが着ているブレザーのボタンに目がいった。

 

「どうした? なんかついてるか?」

 制服の第二ボタンを好きな人からもらう。好きな誰かのボタン争奪戦はいつからか卒業式のお決まり行事になっていた。人気のある人はブレザーどころか全身のボタンまで剝ぎ取られる、とネットで読んだときはボタンへの執着に少し恐ろしくなったことを覚えている。


 だけどリョウタは人気者だから。きっと誰かには渡しているのだろうなとミツキは思っていた。けれど目の前には綺麗に並んだボタンがある。

「……いや、ボタン綺麗についてるなって」

 もちろん第二ボタンも、そのまま。

 別にボタンがあるかないかで何が変わるわけもない。けれど、指定の場所でおさまっているそれにミツキは強い安堵感を覚えた。

「あー、うん。まあ、結構言われた。ボタンくださいって。でもさ」

「……でも?」

 リョウタははにかんだように笑って言う。


「全部断った。俺、すげー好きな人がいるって言った」

「…………別に、あげたってよかったのに」

「俺がなんか、嫌なんだよ」

 その言葉にまた心臓が跳ねる。ミツキはうまく顔を見ることができずに、ただ顔に血が上っていくのが分かった。

 リョウタは黙ってブレザーの第二ボタンを取り、それを握りしめたまま言う。


「すげー待たせた。ミツキのこといっぱい傷つけた。ちゃんと言ってくれたのに、逃げ回って逃げ回って……。俺、自分のことばっかりだった」

 ミツキは黙ったまま、その言葉に耳を傾ける。驚くほど穏やかな鳥の声がのんきに相槌を打っていった。

「それに俺、手もまだ満足に握れない。恋人らしいことも、できてもきっとまだずっと先になるかもしれない。でも――――」

 リョウタが顔を上げる。その目はまっすぐにミツキを見つめていたが、頬も耳も驚くほど赤かった。小刻みに揺れる握った手を前に突き出しながら、彼は言う。


「好きだ。俺、ミツキのことが好きだ」


 その言葉に、ミツキは呟くように言う。

「……俺、不愛想ですよ。口も悪いしすぐ拗ねる」

「だから笑った時が可愛いんだろうが」

「結構嫉妬深いし」

「俺は結構一途なんだぞ?」

「――――それに、男です。あんたが言う子供なんて作れないし、孫の顔なんて見せてやれない。それでも」

 完全に言い切る前に、リョウタは言う。

「俺はお前が良い。ミツキがいい。お前と一緒にいたい」

 その言葉にミツキはくしゃりと泣きそうに笑った。一度壊れた初恋がじわりじわりとその言葉と共に形を取り戻していく。

 余裕の無いその顔が、今は嬉しくて仕方がなかった。


「……奇遇ですね。俺も同じこと思ってました」


 幸せそうに笑う彼の目から、ころりと涙が零れていく。リョウタはじっとそれを見てから、ゆっくりミツキの肩を掴んだ。

「……なあ、抱きしめて、いいか」

「そんな急がなくても、これからゆっくり慣らしていけば――――」

「嫌だ。今したい。今のお前を抱きしめたい」

 その後のミツキの返事は待たれることなく、リョウタはミツキの肩に手を回した。背中から強く押され、リョウタの鎖骨辺りとミツキの頬がぶつかる。

 一気にうるさくなる心臓に気を取られたミツキだったが、素肌が触れあっていることにハッとなって顔を上げた。


「――――っ、だから無理は」

「俺、こんなんだから。一生自分から誰かに触ることなんてないって、思ってたけど」

 けれど見上げた先には酷く満ち足りて、笑う彼がいて。

「…………こんなに触りたいって思ったの、お前が初めてなんだ」

 ミツキは何も言わないまま、ただ彼の裾を少し掴む。柔らかくなった春の風が二人の間を通り抜けていった。

 

 

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