幕間 普通の幸せ
「リョウタ。よく聞いてね」
母親は俺によくこの言葉を言って聞かせた。
「何事も普通が一番幸せなことなのよ」
欲張らずに謙虚であれ。実家の仕事のあれこれでそこそこ苦労したらしい母は、口癖のようにそう言っていた。母の言う普通の幸せは、健康で健やかな肉体を持ち、親兄弟友達と仲が良く、好きな誰かと添い遂げる。
「大きな幸せは目指さなくてもいいの。あなたが幸せでさえいてくれるなら、それが一番」
普通。普通の幸せとはなにか。
子供の俺なりに考えて、恐らく母が言うそれはおとぎ話のような結末なのだろうと考えた。最後に結ばれて、子供に囲まれながら幸せな家庭を築く。
それが普通の幸せなんだ。俺が目指すべき場所はきっとここにある。幸いにも俺の周りには教材が沢山あった。
俺にも色々あって、小学生の時の事件から中学ではちょっと悪ぶっている時期もあった。けれど、心労で母親が倒れた日から俺は決めたのだ。
普通の幸せを手に入れる。きっと、安心させてみせる。
少しばかり、その過程は前途多難だったけれど。無理に笑う母を見て、辛そうにする父を見て、俺は必ずやり遂げると誓った。
けれど、最近ほんの少し分からなくなることがある。
普通。普通って、本当に俺の思う普通で合っているのだろうか。
※※※
可愛い女の子だ。隣のクラスの同学年で、友達。でも多分好ましくは思ってくれているはずだ。少なくともリョウタはそう思っていた。これで彼女ができる。また一歩、理想に近づく。
けれどリョウタが笑って彼女の手を取ろうとした瞬間に、彼女は言った。
「リョウタ君。無理してない?」
「え? してない、してないってそんなの」
「嘘。顔も真っ青だし、笑ってるけど、全然楽しくなさそう」
背後に聞こえる女の子が好きだと言っていた絶叫マシンの歓声がやけに遠く感じた。彼女はリョウタの呆然とした顔を見ながら、困ったように笑う。
「私ね、多分。リョウタ君のこと好きだよ。すごく楽しいし、面白いから」
「っじゃあ」
「でもね。リョウタ君は私じゃ駄目なんだよ」
「……え?」
「私は、無理してまで一緒にいてほしいなんて思えない」
ちらりと彼女はリョウタの手に目を落とす。今まさに彼女の手を取ろうとしたそれは、怯えるように小刻みに震えていた。
「リョウタ君。リョウタ君は誰と一緒にいたいと思ってる?」
「俺、俺は、そんな」
狼狽えるリョウタに、彼女はじゃあ質問を変えるねと続けて言った。
「リョウタ君には、私が誰に見えてるの?」
「誰って、そんなの――――」
黒髪の、背丈が小さくて華奢で、ちょっと下手な笑い方が可愛い。絶叫マシンが意外と好きで、でも変なところが強がりで、生意気で。
「――――あれ?」
おかしい。この子は違う。彼女は生意気でも強がりでもない。優しくておっとりとした隣のクラスの女子生徒だ。苦手そうでもなんでもない、可愛い笑みを花のように浮かべる、彼女。
じゃあ、今考えたのは?
「リョウタ君気づいてる? ずっと私の頬見てから視線を逸らすの」
彼女の右頬を見る。何の傷跡もない丸くて白い頬。なんの痕も、火傷の痕跡すら。
そこまで考えて、リョウタは自分が何を見ていたかに気づく。自分がずっと、彼女自身を見ていたようで、その中に見ていたのは。
彼女はリョウタの様子を見て、こう言った。
「今、あなたが考えた人が、きっとリョウタ君の幸せなんだよ」
好きだから、この恋を終わらせてほしい。
そう言ったぐしゃぐしゃの下手な笑顔がリョウタの頭に浮かぶ。
結局遊園地の前で別れた彼女は、それ以降会うことも遊ぶこともけしてなかった。
「ひっっどい顔」
「……なんだ。須藤ちゃんか!」
「すごい顔してる自覚あります? あの噂本当だったんですね。リョウタ先輩が必死で彼女とっかえひっかえしてるって」
「酷ぇ噂だな。彼女は一回も出来てねえよ」
「だと思いました」
須藤晶。恐らく今一番顔を合わせたくなかった彼女は、唐突にリョウタの前に現れた。文化祭の出店を回っているのだろう。右手にジュース、左手には焼いた卵を薄い煎餅で挟んだお菓子を持った状態で、彼女はふんと鼻を鳴らす。
「何か用か? 見ての通り俺は―――」
「そんな顔でナンパが成功すると思ってんですか? 馬鹿なんですか」
ぐさり。鋭く尖った言葉がリョウタの胸を容赦なく刺していく。
「……はあ、ついてきてください」
「なんだ、デートのお誘いか?」
「その無駄口また言ったら頭からぶっかけますよ。ジュース」
ひやりとした一言に口を閉ざす。アキラはそのまま黙ってリョウタを誘導するように前を歩いて行った。歩いているうちに人気はどんどん少なくなり、リョウタの鼓動も段々と静かになっていく。そうしてまったく人のいない体育館裏で足を止めると、彼女は低い段差に腰を下した。
「どーぞ。ここ滅多に人来ないんで」
「……なんで」
「顔見りゃ分かりますよ。あんなぶっ倒れそうな顔でいられたら」
彼女はそう言って出店の食べ物を頬張る。確かにアキラが言う通り、人気のない場所はあの嫌な熱気がなく、安心して息を吸うことができた。リョウタを見向きもせず菓子をぱくつく彼女の横に間を開けて、彼は固まった肩を少しほぐしてから腰掛ける。
「人ごみでさ、少し参ってるとこだったんだ。だから――――」
「いつ返事をするんですか」
助かったと言おうとしたままリョウタの口が固まった。アキラは彼に一瞥もくれることなく淡々と言う。
「いつ返事すんのかって聞いてるんです」
「……知ってたのか」
「まあ、私はそれなりに信用されてるみたいなんで」
驚いたようにも聞こえない、何の感情の起伏も感じさせない言い方だった。勢いよくジュースをすすって、彼女は続ける。
「で、先輩はあいつが好きなんですか。嫌いなんですか」
「直球だな」
「当然。散々あいつの姿見せられてるんですから。で、なんで返事せずに逃げてるんですか」
「……それは」
「ずっと待ってるんですよ。あいつ。そわそわしてスマホつけたり消したりで。なんで言わないんですか」
リョウタは押し黙る。ズズッと音を立ててアキラはストローから口を離した。
「あーそうか。嫌いなんだ。こんな気持ち向けられて迷惑だってお優しい先輩は面と向かって言ったら傷つけるかもって――――」
「それは違う!」
まるで噛みつくように、リョウタはアキラの言葉を遮った。彼女は別段驚きもせず、冷めた目つきでリョウタを眺めている。
「じゃあなんで?」
「…………っ」
「嫌いでも、迷惑でもないならなんで返事をしないんですか。友達でいたいなら友達のままでいようって一回返事をすればいいのに」
「……そんな、一回告白した関係で戻れるわけが」
「戻れはしないかもしれませんね。でも、好きでいる側は諦めがつきますよ」
黙ったままのリョウタにアキラは冷めた声に少しばかりの怒りを込めて言う。
「あんたはあいつを宙ぶらりんに放置して、何がしたいんですか」
何度も、返事は書こうとした。友達でいよう、これまで通りでいよう。けれどそのどれもがまるで空を掴むように空しくて、何度も消した。何が正解なのか分からなかった。
リョウタ自身の中で認めたくない気持ちがどんどん膨らんでいくのが怖かった。当てはまる言葉はすぐに思いつくのに、それを認めた途端にあんなに頑張った理想が消えてなくなってしまいそうで。何度も頭の中で、彼はその気持ちを刺し続けた。勘違いするなと、痛めつけた。
「――――だって、おかしいだろ。同性なのに、普通じゃない」
けれど彼の苦し気な言葉など意にも介さず、彼女は変わらない声色で言った。
「………普通って何なんです」
「え」
「普通じゃないって、先輩の普通って何なんです」
「そ、そりゃあ誰とも仲がよくて恋人がいて、結婚して、子供が」
「じゃあそんなに誰とも仲が良くなくて恋人もできない私は普通じゃないですね」
「そんなことは言ってないだろ! あくまで俺の中の普通ってだけで」
慌てたようにそう言うリョウタをアキラは一瞥し、深い深いため息を吐いた。
「な、なんだよ」
「………言っちゃいますけどね。私、人を愛せる気がしないんですよ」
「はあ?」
「明日もこの先も、例え何年経ったとしても異性も同性もそういう目でみれないんです」
唐突に始まった話にリョウタは目を白黒させるが、アキラはマイペースに言葉を選んでいく。
「……もちろん苦労もしました。同年代と話し合わないし、あいつらは勝手に人のことを異性とくっつけたがるし。相手にしないと理不尽にキレるし。まあだからあいつといると楽なんですよ」
でもね、とアキラは続けた。静かな話し方だった。
「でもそれが私の中の普通です。誰に押し付けようとも思わないけど、この状態が私の普通なんです」
「普通……」
「普通なんて型があるわけじゃない。誰かの普通は誰かの異常なんですよ」
普通、普通、普通。
リョウタの頭の中でその言葉が繰り返される。
「先輩の普通って何なんです。先輩はどうしたいんですか」
俺の、普通。俺自身がしたいと思うこと。
頭の中の借り物の言葉たちが崩れていく。普通が一番と言った母の言葉。絵本に書かれた理想形。けれどそのどれもが自分の言葉ではなかった。
自分はどうしたいのか。何をもって自分の普通と言えるのか。
「………午後も、体育館でやるんですよ。劇」
立ち上がりながらアキラが言う。
「ミツキも出るんです。……答えが決まったら早く言ったほうが楽だと、私は思いますけどね」
その言葉を聞きながらも、アキラが立ち去るのを感じながらも、リョウタはそこから動くことができなかった。
「俺の、普通」
言われた言葉が、彼の頭をぐるぐると回っていた。
※※※
走る。走る。走る。
どうして走っているかも分からなかった。気が付けばリョウタは体育館を飛び出して、何故か校庭へと向かっていた。
一番後ろからみた彼の姿は、久々に見たミツキの姿は、目が潰れてしまうんじゃないかと思うほどキラキラしていて。綺麗で、格好よくて。堂々としていた。
変にこそこそと逃げ回っていた自身が恥ずかしくなるほどに、その姿は眩しくて仕方がなかった。
―――思考停止してる暇があるならちょっとは考えて自分の答えを出しなさいよ大馬鹿野郎っ!
その言葉がまるで自分自身に向けられた気がしてどきりとした。情けない己を見透かされた気がした。
「は、はは、はははっ!」
馬鹿だ。ああ、すごく馬鹿だ。ここまでされないと気づけないのも、今まで分からないと止まっていた思考も。どれもが酷く馬鹿げていた。
ただ考えることから逃げていただけじゃないか。言われた言葉を自分のものと勘違いして、止まって駄々をこねていただけじゃないか。
なんであんなにキョウヘイにムカついたのか、どうして女の子とデートしている間もあの顔を探していたのか。答えは馬鹿みたいに簡単だった。
「俺は、多分。いやきっと、あいつが」
俺の普通。俺自身が普通と自然に思えることは何か。ようやっとたどり着いた。ようやく正解に巡り合えた。リョウタは顔を上げる。そして足を体育館へと向けた。
その時だった。
「みいつけた」
背筋が、凍った。
どうして、なんで。どうしてあいつがここにいる?
「探したの。探してたの。ずっと、あの可愛い子がどこに行ったかって探してたの」
「――――っ!」
「でね、でね。見つけた。可愛いあの子の君がここにいた。大きくなっちゃったけど、分かる。分かるの。私には分かる」
虚ろな目に、整合性のない言葉。そのどれもをリョウタはよく覚えてる。忘れたくてもいくら腕をこすっても取れなかったあの感触。
「ねえリョウタ君。私のこと、覚えてるよねえ」
初めて人の肉が、気持悪いと感じた小学生の夏の日。目の前の人間の体臭がむっと鼻を突いて、リョウタは小さく後ずさる。
過去が、忘れたかった過去が追いすがるようにリョウタの手を掴み、引き戻す。滝のように彼の体を冷汗が流れていき、からからに乾いた口からはあの日のようになんの言葉も出てこなかった。
「リョウタ君。可愛い可愛いリョウタ君。大きくなっちゃったけど、ああ、まだ可愛い。可愛いねえ」
「ひっ……!」
「ねえ、ねえまたおんなじことしようよ。あの日みたいに、許してくれた、あの日みたいに!」
許したわけじゃない。ただ気分が悪そうに見えて声を掛けただけだった。
しかしその言葉が届くわけもない。掴まれた場所が酷く熱くて、ただ吐き気がするほど気持ち悪かった。
怖い。離して。触らないで。怖い。どうして、俺が。
そのどれもが言葉にならず、力が入らない。それがにたりと笑みを浮かべ、また強く腕を引いた。
「ねえ、いこうよ。可愛いリョウタ君。また、一緒に――――」
けれど。
「―――――っ先輩!」
「みつ、き」
声が、聞こえる。見れば肩で息をする、彼の姿があった。急いできたのか衣装も小道具もそのままで。彼は目の前のリョウタとそれを見る。
「せんぱ、やっと、あえた」
「―――っだめだ、ミツキ! 逃げ」
「なあにこの子。あなたもリョウタ君とおんなじ? あは、なら一緒に行こうよ」
絡みつく腕。それは楽し気に、リョウタの腕を自身のものに絡めとって笑う。
「あなたも、私もリョウタ君も、みんなで一緒に気持ちよくなろうよぉ!」
ミツキまで同じ目に遭わせるわけにはいかない。あんな気持ち悪い、一生残る傷をつけさせるわけにはいかない。いいから逃げろ、リョウタがそう言おうとした時だった。
「―――か」
「はあ? なあに言ってんの。聞こえない……」
それが首を傾げた瞬間と、吹っ飛ぶのは丁度同じだった。
「嫌がってんのが分かんねえのかっつたんだよこのクソ変態‼」
それは舞台で見たものと同じの見事なまでの飛び蹴りで。
絶対に離されないと思っていた腕がいとも簡単に離れていくのを感じながら、リョウタは目の前の彼を見つめていた。
その美しさに、強さに、焼かれてしまいそうだった。
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