幕間 もう会えない君へ

 初めて見たその人は、とてもキラキラしていた。

 春、大阪からの転勤に付き合うようにして移り住んだ街の学校でキョウヘイはあっけにとられた。

 美しい姫君は凛と舞台の上に立ち、堂々と剣を振るう。彼女が何か動作をするたびに光の粉が舞うようで、キョウヘイの目はチカチカした。

 綺麗で堂々として、かっこいい。

 キョウヘイの目にその姿は焼きつけられ、さらにそれを演じているのが彼女ではなく彼だと分かってさらに動揺した。


 小柄な、黒髪の。大人しそうな彼。

 その姿を見た時、キョウヘイの胸はまた高鳴ったのだ。



※※※

 


 腹立つ。腹立たしい。憎たらしい。

 頭の中でどれほどそう思っても今の気持ちを言い表せそうになかった。

 キョウヘイは苛立ちを隠せず舌打ちをする。それに対し、メイが諫めるように声を上げた。


「キョウヘイ君」

「……すんません」

「はあ、君たちに何かあったのは確からしいな」

 そう言って彼女はちらりと練習中のミツキを見る。何度目かのセリフの間違い。動きの間違い。そして身に入らない演技。


「あの様子じゃ、君たちに何かあったかなんて一目瞭然だ」

 ボロボロな演技に、普段とは様子の違う後輩。それは彼ら二人に異常があるとはっきりと示していた。少女は眼鏡の奥の目を冷静に光らせ、彼らに向って部長として言った。

「今日これ以上やっていても身に入らないだろう。早いけど切り上げようか」

「……すんません部長さん」

「なあに、どんなに一流の人間だって感情に振り回されることは当たり前だ。幸い明日は休みだし、しっかり休んで切り替えるといい」

 メイはそう言ってに困ったように笑う。その中にキョウヘイの中にある怒りがまた燃え上がった。

 全部あいつのせいだ。そう思った瞬間、またあの顔を思い出したからだった。



 リョウタは、ミツキのことが好きだ。恐らく本人は腹立たしいことに絶対に認めようとはしないけれど。今日部室で見せてきた顔は、優越感と嫉妬心そのものだった。


 ――――そして、恐らく。ミツキもリョウタのことが好きだ。


 信じたくも認めたくもない。けれどあの時、今日の部室でミツキの顔を見た瞬間に分かってしまった。手を振り払われた瞬間のあの顔は、まだ頭に焼き付いて離れない。そのせいか今日のミツキの演技は散々なものだった。誰の目から見たって何かがあったのかなんてお見通しだ。


 あの男はこうなってるなんて知らないだろう。自分の些細な言葉が誰かを深く傷つけるなんて思ってないんだろう。ミツキのことなんて何も考えていない馬鹿。そのくせ言われたらいっちょ前に傷ついた顔をするのだから手に負えない。

 キョウヘイはため息を吐く。

「……あんなん言わへんかったらよかった」

 ありえないだの普通じゃないだの言うくせに、優越感をまるで隠さずに振舞うあいつが憎たらしかった。気づいてもいないくせに、先輩の特別に収まろうとしているあいつが気に喰わなかった。


 だからちょっと噛みついたら自覚するか離れるか、どっちかになるだろうと思ったのだ。あの男が真正面から好きだと認めれば、その動揺した顔で少しは気分が晴れる気がした。


 けれど結果は最悪だ。キョウヘイは気づいてしまった。ミツキが恋心を自覚してしまったことに。そしてその原因は紛れもなく自分自身だ。

 ミツキはあの男の言葉に振り回されて、そんな姿に自分も苛立ちが隠せない。それがどうしようもなくイライラしてむしゃくしゃして。あの男で頭がいっぱいになっている先輩なんて見たくなかった。


「ッ先輩!」

 だからキョウヘイは声を掛けるのだ。その落ちた肩を見ていたくないから、彼にもっと輝いていてほしいから。


「僕と遊び行きましょ!」



※※※



「ほい、先輩。アイスどーぞ」

「え、あ、ありがと」

「次どこ行きます? この後イルカショーとかもあるみたいやけど」

 賑わう水族館の中、キョウヘイはソフトクリームをミツキへと渡す。五月に入り、暑さの増した体をアイスがひんやりと冷ましていった。


「僕は先輩の行きたいとこにお供するんで。どないします?」

「……えっと、じゃあ深海魚コーナーで。静かなとこ、行きたい」

 初めはどこか緊張していたミツキも、心なしか楽しんでいるように見えた。やはり例の件で参っていたのだろう。そのことを思い出すとまたキョウヘイの心に薄暗い炎が灯る。

「じゃあ、行きましょか!」

 今はあんな奴のことなんか思い出す必要はない。一瞬思い出したムカつく顔を追い出して、二人は深海魚コーナーへと向かった。



 思う存分楽しんだ、と思う。

 水族館を歩いて回って沢山写真も撮った。お土産コーナーで同じ色違いのキーホルダーを買った。いろんなものを見たし、たくさんいい思い出ができた。ミツキの表情は分かりにくいが、ちゃんと楽しんでいたはずだ。


「今日は、ありがとな」

「……そんな、僕の方こそ先輩と遊べて楽しかったんで」

「気を遣わせて悪い」

「いや、そんなこと……」

 口を開いて、閉じる。今日は楽しいデートで、夕日が綺麗でお揃いの物も買って、それで終わりでいいじゃないかと思った。余計な事なんて聞かなくても、楽しい終わりでいいじゃないか。


 でも、けれど。どんなに楽しいことに誘っても、自分の言葉で伝えても、ミツキの表情は決して心の底から明るくはならない。だって、その根幹にはあの男がいる。だから、自分じゃ駄目だ。このままじゃ、駄目だ。


 このままじゃ、先輩はずっと前に進めなくなってしまいそうだから。進みたくても進めない苦しさを、キョウヘイは誰よりも知っているから。


「じゃあ、そろそろここで――――」

「先輩。好きですよね、あいつんこと」

「――――………そんなことない」

「あの男のこと。御子柴涼太が好きいうことですよね」

「そんなんじゃない! 俺は、そんなこと」


 だからキョウヘイは突き進む。悲鳴のような言葉に心が締め付けられるように痛くなりながらも、心が刺されるように痛んでも。

「なあ、先輩。あの男が、御子柴先輩が彼女と歩いてるとこ想像してください」

「……っ!」

「それだけなんに、痛いんでしょ。苦しなって、しまうんでしょ」

 いつもほとんど表情の分からない先輩なのに。この時ばっかり、はっきりと苦し気に顔を歪めるから。キョウヘイは悔しくなる。それほどあの男がミツキの中で大きい存在なのだと実感して、苦しくなる。


「それは恋や。先輩は御子柴先輩が好きなんよ」

「……そんなんじゃ、ない。そんなこと、そんな迷惑なこと」

「好き言うんは、他の人からどう見られるかで決められるもんじゃないですよ」

「……っでも、先輩は普通が欲しくて、普通の幸せが、可愛い彼女が欲しいって、ずっと」

「やからって好きになっちゃいけない、なんてことないです。誰にだって人を好きになる自由があって、誰もそれを否定することなんてできないんです」

 震える肩を掴めたなら、僕にしてと言えたならどれだけいいのだろう。しかしキョウヘイはぐっと拳を握る。それではいけないのだ。傷につけ込むのでは根本の解決にはならないのだから。


 彼が自分で選んで、受け入れて、決めなければならない。

「……先輩。僕の話、聞いてもらってもええですか」



 それはキョウヘイが小学生の頃だった。初めて好きな相手ができて、それがクラスの男の子で。幼いながらに自身が異端者であることを知った。絵本ではいつだって同性同士で結ばれる話などあまり聞かない。己が少数派であることが分かるのは早かった。だから気持ちを伝えることなどなかった。ただいい友達でいようと努めた。


「でもね。その子死んだんです。交通事故で」

「えっ」


 あまりにあっけなく、その子はいなくなって。ただ、彼がいたという証拠と呼ばれる声だけが耳の中に残っていて。

 ぽっかりと空いたままの机を、ただ眺めることしかできなかった。


「その子が好きだって気持ちだけが、僕ん中に残ったまんまなんですよ」

 好きと言えないまま、初恋にしばられたまま。ここまで来てしまった。あの子によく似た表情の乏しい顔を見て、キョウヘイは言う。

「先輩。いつなんも言えんくなるかなんて誰にも分からないんです」

「…………っ」

「僕は、先輩がずうっと苦しんどるのは見たくない、から」

 このまま黙っていればあの男はきっといなくなる。卒業して、どこに行ったかも分からなくなって。でもそれは一生ミツキの心の中に居座るのだろう。消えない爪痕を残していくのだろう。


「………俺」

「はい」

「多分、……リョウタ先輩が好き、なんだと思う」

「……はい」

 ずきり、と心臓が痛んだままキョウヘイはミツキの言葉を聞く。

「先輩は可愛い彼女が欲しいって言ってたし、俺の気持ちは迷惑かもしれない。でも、好きなんだ。きっと」

 あいつも先輩のこと好きですよ、とは言えなかった。それがキョウヘイなりの、好きな彼を悲しませたあいつへの精いっぱいの嫌がらせだった。


「でも、俺もこのままじゃきっといけないんだ。お前がさっき言ったみたいに、後悔したくない」

 だから、とミツキが顔を上げる。キョウヘイは今日初めてその目を見た気がした。

 舞台の上と同じ、まっすぐで吸い込まれそうな黒い瞳。視線を合わせながら、彼は言った。


「気持ちと向き合って、告白する。んで、ちゃんときっちり振られてくる。……先輩がいる間に、この気持ちにケリをつける」


 その目は揺るがず、強い意志を感じさせた。これが彼が出した答えなのだろう。

「そう、ですか」

「……色々気を遣わせたよな。ごめん」

「………っ僕は先輩が誰を好きでも、ずっと先輩のことが好きですから」

 憧れに近しい、感情なのかもしれない。星を追いかける子供のように、輝くものに手を伸ばさずにはいられないような、そんな感情。それに初恋の面影が混ざり合ってキョウヘイの胸をきつく苛む。


 憧れかもしれない。初恋の幻影を追いかけているだけなのかもしれない。

 けれど、キョウヘイはミツキが好きだ。困ったような顔も、声も。


「うん。ありがとう。キョウヘイ。……応えられなくて、ごめん」


 そう言ってはっきりと言ってくれる優しさも、全部好きだ。

「……はい」

 ああ、泣くな。泣くな。先輩が不安になる。

 心は引き離されたことに鈍く痛む。溢れ落ちそうな涙をこらえたまま、キョウヘイはにいっと笑った。



「……、なあ、先輩」

「ん?」

「ミツキ先輩って、呼んでもええですか」

「………いいさ。そのくらい」 

 好きでいてもいいですか。ずっとずっと想っていることだけは許してくれますか。

 茜色に輝くガラスのイルカを手の中に握ったまま、キョウヘイは前を向く。瞳の中のオレンジ色が、水面の月のように揺れていた。

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