第10話 まずは第一歩
廊下に聞こえるチャイムを遠くに聞きながら、ミツキは便器に顔を突っ込んでいる背中を撫でさすっていた。
吐くタイミングと同時に背の肉が脈動するようにうごめく。トイレに頭を突っ込んでいる当の本人はげえげえと吐きながら、苦しそうに喉を動かしていた。
「……大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないんだろうな。
あくまでも背中に直接手が触れないようにブレザーを手が隠れるまで引っ張り上げて、完全に素肌が見えなくなった手を使いながらミツキは思う。
五分ほどであらかた胃の中のものをすべて吐き出したのだろう、リョウタがうめき声を上げながら立ち上がった。
「―――……悪い」
「気にしないでください。ほら、口すすいできた方がいいですよ」
顔色は未だに悪いままだったが、さっきと比べれば随分とマシになったように見える。
促されるまま水道で口をすすいだ後、二人は元の部室に戻りお互い疲れ切ったように腰を下した。授業がはじまった為か、騒がしかった廊下はしんと静まり返っている。上の階から教師がかつかつとチョークを当てる音と、授業内容を説明する声が春の和やかな鳥の鳴き声。何とものんきな日和だった。
「……大丈夫ですか、授業」
「あー、大丈夫大丈夫。見せてもらうし。それよか、お前こそいいのかよ。さぼっちまって」
「いいですよ。アキラに見せてもらうし。それに、こうなったのは半分俺の責任みたいなもんですし」
思っていたことがどうであれ、結果として焚きつけるような真似をしてしまったのは確かだとミツキは言う。
リョウタはその言葉に対し、慌てたように首を振った。
「いや、俺が勝手に暴走したみたいなもんだし」
そう言うと彼は片手を頭にやる。視線はうろうろと床の上を彷徨い、何を言うか考えているようだった。
そして、意を決したように顔を上げる。
「……体温が駄目なんだ。熱いと、特に」
ぽつりぽつりと呟くように話されるそれは、ミツキがさっき聞きたかった言葉だった。
その言葉を遮らないように、ミツキは黙って彼の話に耳を傾ける。
「あと、皮膚の感触も。ぐにゃって感じがすごく、無理で」
「……なるほど。素肌同士はまず危険と」
「服で遮ってるならある程度我慢はできるんだ」
そう言うと己を守るようにリョウタはブレザーの前を握りしめた。彼にとって、学校にいる間はこれが身を守る鎧なんだろう。
「ただ、ワイシャツ越しとか、そういうのはちょっとしか我慢できない。マジで」
素肌であれだけ反応するのだ。生地越しに伝わってくる体温も駄目なのだろう。ならしばらくは温度に慣れる訓練からだろうか。
聞いた内容からミツキの頭の中で慣らすメニューが組みあがっていく人肌に近い温度の何かでまず代用しつつ、後は肌近い感触のもの、ゴム質の皮なんかを使って触っても驚かないようにしていこうか。
けれどミツキがそう考えている間に、思い出したようにぶるりと身を震わせながらも、だけどとリョウタは言った。
「素手であんなに長く握れたのは初めてだ」
「ただ我慢していたからじゃないんですか?」
「いや、いつもだったらもっと早く手を離してる」
とてもじゃないが耐えられないと彼は言う。それは体温が低かったせいか、それとも自分から手を握りに行った分の意地が勝ったのか。それは今の段階では分からないことだった。
けれど、その事実に希望を見出したらしいリョウタは輝いた顔でミツキを見る。顔色自体はまだ戻っていなかったが、蒼白だった顔には着実に色が戻りつつあった。
話しているうちに体調が戻って来たなら大丈夫そうだな。そう心の中で安心したミツキだったが、次に発せられた言葉に耳を疑った。
「なあ、ひょっとしてお前で練習すれば克服できるんじゃないか?」
「………は?」
ミツキは呆然とした表情のまま思わずといった様子でリョウタを見た。
そこにはさっきまでの嘔吐が尾を引いているものの、これでもかと顔じゅうに笑みを浮かべている彼がいた。興奮しているのか、少し早口でリョウタは言う。
「だってあんなに長く手を握れたんだぜ⁈ 奇跡だよ奇跡!」
内心嫌な汗を流しながらもミツキは「はあ」なんて気の抜けた相槌を打つ。なんだか思っていたよりも数百倍は面倒な流れになりそうだぞ。
頭の中で考えていた慣らしプランが崩壊していく音を聞きながら、ミツキはリョウタ濁流のような話を聞いていた。
結局、彼は一瞬たりとも口を挟む隙間を与えなかった。
「なあっ、ミツキ!」
「は、はい」
「正直理想になるための演技とか、触れても大丈夫に見せる演技とか面倒ごと沢山で申し訳ないんだが」
とても嫌な予感がする。
「ついでに、さ。触ること自体も克服していけたらもっといいよな?」
「そりゃ、まあ。克服していければそれに越したことはないですけど」
「だよな! 実は俺さ、お前なら大丈夫な気がするんだ!」
何がだ。何を持って大丈夫だと判断したんだ。
あまりの勢いに気圧されるようにミツキは後ろに下がる。自分が教えていたはずなのに、どうして今こんなことになっているんだとミツキは目を白黒させた。
彼の中では距離を置きつつ観察をしながら、肌の代用品を使いながら徐々に「触れた時普通の顔をしていられる演技」を教えていこうと考えていたのだ。
しかしリョウタはそんなまどろっこしいことなんて考えられないと言わんばかりに唖然とするミツキにこう言った。
「俺の練習相手になってくれ!」
本当にどうしてこうなった。
授業終わりのチャイムを遠くに聞きながら、ミツキはただぽかんとリョウタを見つめていた。
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