第2話 演劇部のエース

 演技を教えてほしい。そう告げたリョウタの言葉にしばし呆然としていたミツキが跳ねるように飛び出したのは彼らの会話からほんの数秒後のことだった。


「え? は、おい!」

 突然のことに驚いたようにリョウタが声をあげるが、それすら無視するような勢いでミツキは階段を駆け下りていく。

 タタンタタンタタンと青い上履きで音を立てながら、小柄な背はあっという間に一階へとたどり着く。そしてリョウタが二言目を告げる前に、その背は廊下を勢いそのままに右へと曲がった。



※※※



「―――っ、待てよ、このッ!」

 あまりに突然な出来事に唖然としていたリョウタだったが、ミツキが目の前から逃げ出したと言う事実に頭が追いつくと、すぐさま階段を二段飛ばしで駆け下りた。

 あっという間に一階のリノリウムに足をつけた彼は、ミツキが曲がって行った方向に首を向ける。その目は渡り廊下先の一番奥、昼休みで人気のない部活棟の扉がガラガラと音をたてている最中であることを確かに捉えた。


「っ、あそこか!」

 そう思うや否やリョウタはすぐさま部活棟へと駆けだす。柔らかな春風も心躍らせる桜の花びらの甘い匂いも、彼を止める理由にはならなかった。泥を落とすための緑のゴムマットすら飛び越える勢いで、リョウタは部活棟へとまっしぐらに進んでいく。

 幾分か温度の下がったひやりとした室内。足を踏み入れ、そして勢いそのまま一番奥でしんと静まり返っている中、目の前の扉を開けた時だった。


「あれ?」

「……何か御用ですか?」

「え、いや、確かにここに」


 だが、中にいたのはリョウタが追っていた彼ではなかった。目を白黒とさせる彼の耳に、少し低く良く通る声が届く。

「先輩たちなら今はいませんけど」

「いや、先輩に用があるわけじゃないんだけど」

「じゃあ、上級生が何の用なんです」


 所狭しと段ボールや板で作ったアーチや小物が転がり、その部屋の中心に立っている人物がリョウタに声をかけたようだった。グラウンドに面した窓の逆光が強くて顔は見えないが、ポニーテールにブレザーを腰で結んだ姿の

 どこを見渡してもリョウタが追いかけてきたあの背中は見当たらない。おかしいなと首を傾げるリョウタに対し、彼女は淡々と続ける。


「それとも演劇部に入部希望ですか? なら顧問の先生に話を通してもらってからでお願いします」

「え、ああ、いや、その。演劇部に用があるっていうか……」

 すらすらと流れるように出てくる言葉にリョウタは首を振って答える。はっきりとしない彼に、どうやら演劇部らしい彼女は苛立ったように声を上げた。

「なんですか? これからちょっと練習したいんで早めに言ってもらえると助かるんですけど」

 さて、どういったものか。

 リョウタはとりあえず気の抜けるような笑みを浮かべると、なるべく自然な軽い話口調で彼女に言葉をかける。


「あのさ、ここにもう一人来てなかった?」

 かろうじて見えた彼女の上履きに青いラインが入っていることを確認しながらリョウタは続けた。

「君と同じ学年の男子なんだけど。ここに入ってきたのが見えてさ」

「知りません。もういいですか?」

「ちょちょちょ、待って! 待ってくれって!」

 ふいっと逸らされかけた彼女の顔がリョウタの言葉に渋々と言った様子で戻される。露骨に迷惑そうな対応にめげずに彼は続けた。


「如月ってやつなんだけど。演劇部の」

「……はあ」

「君も演劇部だろ? なあ、あいつに伝言頼めないか?」

 その言葉から少し間が開いた。無言にも関わらず「なんでそんなことしなきゃならねーんだよ」という彼女の視線がチクチクと刺さる。


 だがここで引き下がるわけにはいかなかった。あの反応からしてミツキはこれからもリョウタを避け続けるだろう。同じ生徒とはいえ、学年が違えばこれから会う機会も中々ないかもしれない。

 この機会を逃すわけにはいかない。リョウタにはあと一年なのだ。


「頼む! お願い! この通り!」

 リョウタの姿勢にたっぷりと間を置いてから、彼女は言った。

「………………まあ、じゃあ、伝えられたら」

 その言葉にリョウタはぱっと表情を明るする。何故か女子生徒はそれにたじろぐ様に後ずさったが、今の彼には見えていないようだった。

「助かる! じゃあ、放課後校門で待ってるって―――」

「今日は練習あるんで待つだけ無駄だと思いますけど」

「なら部活終わりまで待ってるから! とにかく頼んだ!」

 これ以上ここに居たらまた何かを言われそうだ。そう考えリョウタは伝言だけを頼むとさっさと部活棟を後にする。


 その時、ちょうど渡り廊下で部活棟へと歩く女子生徒とすれ違う。またも高い位置で結われた髪にリョウタの思考にさっきの演劇部員の姿がふと思い浮かび、購買から聞こえてくる声に紛れて消えていった。


 春の日差しに少しまくり上げていた袖を元に戻し、ブレザーのボタンをきっちりと留める。

「…………大丈夫。俺は、できる」

 そう言って少し緊張した面持ちのまま、リョウタは歩き出す。瞬間に明るいクラスメイト達の声が、彼を呼んだ。



※※※



「おいこら」

「痛っ!」

 扉を開けて開口一番、ポニーテールの彼女は目の前の人物にデコピンをひとつ。


「まったく、道具が日にあせるからカーテン閉めなって」

 さんさんと日の光が入ってくる窓を、カーテンが遮っていく。部屋は少しだけ暗くなり、白色がやわらげた日の光が中を照らしていた。

「それから―――」

 次に彼女は、目の前の頭を掴むと黒い塊をばさりと持ち上げる。その下から現れたぐしゃぐしゃに乱れた黒髪を一瞥しつつ、呆れを隠さずに言った。


「この。まだ調整してる最中なんだから、触るなって言ったでしょうが」

「あ、アキラ。その、これには訳が……」

 まったく、とため息を吐きながらアキラと呼ばれた彼女はポニーテールに仕上げた黒いウィッグのほつれを片手で丁寧に整える。そしてあたふたとした様子の目の前の人物に向けてこう言った。


「で? 我が部のが何ウィッグ被ってこそこそしてるわけ?」


 その言葉にミツキはバツが悪そうにほんの少し視線を下げたのだった。


 

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