29▷三十二歳 新月十五日
この日は、シュリィイーレ教会にとって最も大きな変革の日となった。
朝食の後、すぐに私達の最も緊張する場面が訪れた。
第二位聖教会認定のために、神司祭筆頭統括でいらっしゃるリンディエン神司祭が『教会在籍者詳録』の石板をお持ちくださったのだ。
この石板に名前が記されている者が、この教会における『神職』である。
恭しく執り行われた授与式の後、主神像の側にその石板が掲げられた。
主神を頂くこの聖シュリィイーレ教会では、紫水晶の石板に彫られた名前におふたりの神司祭様の名が
石板の下の方、銅色の文字の名前が……みっつ、並んでいた。
『レトリノ』『シュレミス』『アトネスト』
……私の、私の『名前』が間違いなく刻まれていて、胸がいっぱいになった。
こんなにも、自分の名前が刻まれることに喜びを覚えたのは初めてかもしれない。
成人の儀のあの日に捨てさせられた名前、馴染まない通称と名称を元に戻せたラーミカでのあの時も喜びはあった。
そして、皇国に帰化を決めてアーメルサス語から皇国語に表記が変わった時も感動に打ち震えた。
その私の名前が、神職として教会の詳録に刻まれたのだ。
まだ半籍であり帰化まで四年半以上あるのに、皇国の、
レトリノもシュレミスも頬を紅潮させ、目に光るものがある。
石板の一番上に書かれた『第二位・聖シュリィイーレ教会』の文字に、改めて気持ちが引き締まる。
皇宮聖教会の次席、つまり王都の聖教会と並び皇国にたったふたつの最上位といえる教会なのだ。
今後の私達の全てが、この教会の評価になるのだ。
王都の貴系街区と同じ、領主を持たない町の評価の基準は当然教会と衛兵隊だ。
シュリィイーレ隊が皇国随一なのは既に周知の事実であり、その長であられるセラフィエムス卿が最も素晴らしい魔法師であることも知られている。
だから、聖シュリィイーレ教会の今後の全ては、その衛兵隊の護る町に相応しいか厳しく評価されるだろう。
身の引き締まる思いでいるのは、私だけではないようだった。
教会内での儀礼が全て滞りなく終了し、ひと息ついた私達は軽く昼食を取る。
今日は保存食の『鶏肉の香草焼きと揚げ芋』で、久し振りのあの食堂の味に気持ちが和らぐのを感じた。
そして昼日刻になり、全ての扉が大きく開かれて町の方々を迎え入れる。
聖堂では教会の正式な階位が示された『認定証』が掲げられ、複数の神司祭様所属である皇国における民間教会の最高位となったとの宣言がなされた。
そしてテルウェスト神司祭の神司祭への昇位、レイエルス神司祭の赴任。
今後、シュリィイーレ在籍者で神従士を希望する者の受け入れが、
詳しいことが書かれた触書が衛兵隊員達の手により朝早くから町中の各所に貼られ、教会前では三椏紙になんと金文字で題字の書かれた触書と同じものが無料で配られている。
その文字は、当然『第一等位書師』である、タクトさんのものだ。
私達にとって、それがどれほど誇らしかったかしれない。
町の方々の全てが、タクトさんが輔祭であることを知っている訳ではない。
知っている方の方が、かなり少ないであろう。
タクトさんがイスグロリエスト大綬章の書師と知られていても、聖魔法を持つ輔祭であるということまでは公開されていないからだ。
民間の方で、しかも十八家門と血縁関係にない方での聖魔法所持は非常に珍しいから、親しい一部の方々や魔法師組合の組合長、衛兵隊……そして、我々教会関係者だけしか知らないことだ。
そのことを『知っている』というだけで、なんとなく優越感のようなものを抱くのはやはり自分が凡人だからだろう。
しかし、嬉しいのだから、仕方がない。
教会の扉は大きく開けられ、大勢の方々が祝辞をくださる。
そして……なんと、子供達までもが私達に祝いの言葉をくれたのだ。
ひとりの子がレトリノの上衣を少し引っ張るように握り、話しかける。
「今日は忙しいから、遊文館には行かない?」
「……うむ……すまないな、閉まる少し前に行かれるとよいのだが……」
レトリノが三人くらいの子達と話をしているのをテルウェスト神司祭が見つけて声を掛ける。
「レトリノ、構いませんよ。いっていらっしゃい」
「え、しかし……この後も」
「子供達の『涵養』こそが、あなたの仕事、ですよ」
テルウェスト神司祭の言葉にレイエルス神司祭も頷いて、レトリノは感激したように息を詰まらせたが、はいっ! と返事をして子供達の手を取る。
子供達がレトリノの手をぎゅっと握りかえして、一緒に行こう、と外へ連れ出した。
「シュレミス、アトネストも、今日は神官達が出られません。あなた達だけでも子供達を見に、遊文館に行ってください」
「は、はいっ!」
シュレミスが返事をして私の上衣の端を引っ張る。
「い、いってまいりますっ!」
なんとかそれだけを言うと、私達は聖堂の扉から表へと飛び出した。
「あれれっ、君達……」
聖堂の扉のすぐ外側、待合の部屋によくシュレミスと算術のことを一緒に語り合っていた少年達が立っていた。
「えへへ、シュレミスさんにもお祝い、持ってきたんだよ」
祝いだと持ってきてくれたのは、
正直、私にはなんだか解らなかったのだが、シュレミスはいたく感激していた。
「これは、これはなんて規則正しくて美しい! これぞ『数学的』だね!」
シュレミスがそう言うと、少年達は得意気にこの間の続きの話をしよう、と連れだって遊文館へ移動してしまった。
……私は……まだ魔力が千を越えていないので、自分の部屋からでないと遊文館には飛べない。
歩いて行こうか、と表に出た時に……あの、夜によく会う子供達のうちのふたりが少し怯えたように端の方できょろきょろとしていた。
そして、私を見つけると一目散に走って来た。
ぶつかるように抱きつくふたりを受け止めて、目線を合わせるように屈む。
夜のお願いのことを教えてくれた茶色の瞳の子と、その子といつも一緒に居る赤い髪の子だ。
この子達が遊文館の外に出ているところを、見たことがなかったのでとても驚いた。
「迎えに、来てくれたの?」
そう囁くと、こくん、と頷き、赤髪の子は少しだけ泣きそうな顔をする。
「いなく、ならない? ひるのじかんも、いるの?」
ふたりは、私が昼間も夜もここに居るのか心配になったのだと言う。
なんでそんなことを思ったのだろう。
……今度、聞いてみよう。
この子達の話したいと思うことを、全部。
私はふたりの手を引いて、聖堂の中へと案内する。
司祭様達が一瞬目を見開いていたがすぐに微笑んで、私達が主神像の前に進んで行くのを止めることはなかった。
紫水晶の石板のその文字が見えるように、私は私の名前が刻まれた箇所を指差す。
「ここに書かれているのは、私の名前だよ。これが書かれているから、私はこの教会で暮らしていいって神々にお許しをいただけたんだ。だから、ずっとこの町にいるよ」
「なまえ……あ、と、ね……」
まだ、小さい赤髪の子は読めないみたいで、茶色の瞳の子は『アトネスト』と私の名前を読み上げた。
私は身分証に刻まれた名前をふたりに見せて、同じ文字だろう、と言うとやっと安心したのかにっこりと微笑む。
するとふたりは、私に自分達の身分証を見せてくれた。
茶色の瞳の『アートルム』、赤い髪の『エリュト』……名前を呼ぶと、ふたりは更に嬉しそうにしがみついてきた。
怖かっただろうに、大人達が沢山歩いている道を私のためにここまで来てくれたのだ。
彼等の名前と一緒に、この思いやりと勇気を私はきっと一生忘れないだろう。
この日は、特別な日だ。
この町にとっても、教会にとっても、私にとっても。
だが、この子達の特別でない毎日にずっと寄り添えることの方が、計り知れないほどの喜びなのだと改めて気付いた。
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