第73話 三十一歳 秋・弦月下旬-6
「……お疲れ様でした」
書き疲れた私に、タクトさんは持っていた回復の方陣を使ってくださった。
「凄いですね……全然痛みがなくなりました」
「応急処置ですから、終わったらちゃんと休ませてくださいね。ぶっ通しで済みませんでした」
そう言うと、甘いパンですからどうぞ、私に差し出す。
いったいどこから……と思ったがどうやら【収納魔法】をお持ちのようだ。
そしてテルウェスト司祭にも気を遣ってか、そのパンをお渡しする。
「大丈夫ですか、テルウェスト司祭?」
「……ええ……なんとか」
テルウェスト司祭はやはり、聞いていてかなり不快な思いをなさったのだろう……
「みんなで甘いものでも食べましょうかっ!」
タクトさんがそう言い、みんなに甘いパンを配りだした。
『菓子パン』というらしい。
「今、司書室にいる方々の分しかないから、他の人には内緒ですよ?」
そう言ってタクトさんがシュレミスとレトリノにも、手渡すとふたり共ものすごい笑顔だ。
ガイエスにも渡そうとすると、ガイエスはなにやらもの凄く迷っているような表情を浮かべていた。
あまり空腹でなかったのだろうか?
手元がよく見えなかったが、受け取ったようですぐに頬張っていたから遠慮しただけなのかもしれない。
あ、甘くって美味しい……柑橘の甘煮だ。
菓子パンを食べ終えたテルウェスト司祭が大きく息を吐き、表情を弛める。
「はー……申し訳ありませんでした。つい、理性を失いそうになってしまいましたよ……」
「いいえ。仕方ないですよ。ヴェーデリアが聖神二位ですからね」
「それだけではありませんよ……なんですか、あの賢神二位は! あんなに図々しく人々にできあがった果実を要求するなんて……あり得ませんっ!」
そ、そうだった……テルウェスト家門が次官を務めるカタエレリエラ領の英傑・ヴェーデリア家門は聖神二位で、テルウェスト司祭自身は賢神二位……どちらもアーメルサスではもの凄く歪められすぎている神々だ。
落ち込んでしまった私を慰めるように、タクトさんがあんなものに洗脳されなくて良かったですね、と仰有る。
そういえば……あまりあの教典を盲信している人は、いなかったと思う。
「いえ……多分アーメルサスの民で神々を畏怖する者はいても、信じている者は……少なかったかもしれません」
そう言って顔を伏せてしまった私に、テルウェスト司祭がぽん、と背中に手を置く。
その触れられた背中から、温かい何かに覆われていくように感じる。
なんだか柔らかく、肌触りのいい毛布にくるまれているような感覚だ。
すると、タクトさんからもう少しだけ頑張ってください、と言われ、はたと思い出す。
「まだ……書くこと……あ、そういえば、覚えている神話も……でございました」
この『教典』だけでも私が書いていた時は、思い出しながらだったせいか時間がかかっていた。
読んでいただいたものをそのまま書き取るだけだったから、もの凄く早く済んだがまだ神話の部分はまったく訳していない。
だが、テルウェスト司祭が仰有ったのは神話のことではなかった。
「まず、皇国語で書いた一枚目を、もう一度アーメルサス語で書いてください」
私は少し驚いたが、確かに口述で訳文ができたのだから一枚目もアーメルサス語で揃える方がいいだろう。
「ただし、書き始めを少しだけ下にずらして上の方に文字を書き込める場所を空けてください」
テルウェスト司祭に言われた通り、書き始め三行分くらいの空白を取って書く。
暫くして一枚目がアーメルサス語で書き上がり、口述筆記の皇国語分とタクトさんとテルウェスト司祭が見比べる。
何カ所かの文字の間違いを指摘していただいた訳文の方も完成し、最初の一枚目と最後の一枚が再び私の前に置かれた。
「はじめと最後……この二箇所に『ここに記載されている内容はすべて偽りである』と記載した上で、魔力文字であなたの署名を入れてください」
思わず、目を見開きテルウェスト司祭を振り返った。
私に、この『教典』が『偽書』であることを……証せ、と……?
表情をまったく崩さず、テルウェスト司祭は更に続ける。
「その署名には『カティーヤ・アトネスト』と入れて欲しいのです」
がたんっ!
身体が勝手に動いた。
思いきり立ち上がり、何を言えばいいのかも解らずにテルウェスト司祭を見つめる。
私に、捨てられた家門の名で、司祭家門の者として、アーメルサスの教典を否定しろ、と言うのか。
確かにこの教典は間違っているものだ。
だが……それを、あの家門から既に放逐された私が、家門の一員のような振りをして皇国に差し出していいものなのか?
私はただ唇を噛み締め、自分の書いた紙束に触れながら……混乱の中にいた。
テルウェスト司祭はゆっくりと口を開く。
「皇国教会では『正典』以外を神々の言葉とすることを一切認めていません。そして、ねじ曲げられた似ても似つかぬものが皇国内に存在することは看過できません。皇国にそれらの教えや言葉を持つ者が全くいないのであれば、他国民の戯れ言と放っておけますが、現在多くのアーメルサス人が皇国内にいて、数年後には帰化します。その皇国人となった彼等が……今後、かつて暮らしていた国の間違った教えを書き残さないとも限らない。それがうっかり残ってしまい、後世で『神々の言葉や物語』とされてしまってはいけないのです」
後世でも『過ちであること』を証明するために、今、偽書として牽制しておく……ということだ。
理屈は解る……が、それを認めるために、私がカティーヤを名乗ることは……
「それを書き記すことで……カティーヤが……アーメルサスを裏切ったということになるのでしょうか……?」
あの家門から切り捨てられたくせに私がそれを名乗るせいで、私の家族達だけでなく、カティーヤ家門全員がアーメルサスの裏切り者になる。
アーメルサスで人々のためにと祈るすべての神職をも、私が……貶めてしまうことに……
「アーメルサスの、君の生まれた家門に迷惑がかかることを恐れているのであれば……その点は気にすることはありませんよ」
「「は?」」
司祭の言葉に私だけでなく、タクトさんも驚きの声を上げる。
そしてテルウェスト司祭がご説明くださったのは、皇国の諜報員達が調べたというアーメルサスの現状。
「現在、既に五司祭家門と言われていたすべての家門の者達は、既にアーメルサス国内にはいません」
いな……い?
まだ民はいるだろう?
イクルスを離れただけではなく、国内にいないとは……どういうことだ?
司祭が、神官が、為政者たちが……真っ先に逃げ出したと、護るべき国と民を捨てたというのか?
彼等が政治的に失敗していたとしても、民のために祈り続けていると思っていた。
信仰している教典が間違っていたとしても、祈りの気持ちまではなくしていないと。
なのに。
「五司祭家門の幾人かはオルフェルエル諸島で発見されていますが、散り散りに無人島などへ渡ったようで……その後の足取りは不明です。生きているかどうかも……」
脱力して腰が砕けた。
椅子がなかったら、私は床にへたり込んでいただろう。
なんと情けない国だ。
なんと下らない信仰だ。
なんの罪もない民を地下に押し込めて働かせていただけでも、充分に罰されるべきだと思っていた。
だが、地上に住まわせ司祭たちがこの国を護ってくれると信じて仕えてくれた者達も切り捨てて、自分達だけが国外に逃亡したのであればそいつ等は神職どころか人ということすら烏滸がましい。
すべての民を逃がすこともせず、最後まで信仰を護ろうともしない者達に、どこに行ったとて生きる意味などあろう筈がない。
怒り、というものがどういうものなのか、初めて解った気がする。
私は千年筆を握り締め、その黒の色墨で『ここに書かれた内容のすべては唾棄すべき偽造であり偽書である』と示された二箇所に書き記し、色墨塊を抜いて魔力筆記で署名した。
『カティーヤ・アトネスト』
その文字は薄くはあるが美しい水色で、私の魔力の色。
何ひとつあの家門の者達と似ていなくて、こんなにも嬉しく清々しい気持ちになったのは生まれて初めてだ。
「ではっ、こちらでよろしいでしょうか!」
タクトさんも、テルウェスト司祭も私の変な勢いに唖然としていらっしゃるようだった。
だが、私の暴走は止まらなかった。
「私の身を案じてくださり、私の気持ちを尊重してくださって感謝に堪えません。ですが、私はあの家門の名がここまで不名誉なものであると感じたのは初めてですっ!」
こんなにも強い言葉を自分が放てるのかと驚いてしまうくらい、私は怒りで言葉を繋げていく。
「長きに渡り神々を差別し、貶めている教典を仰いでいたことは情けなく、それでもそれしか知らなかった憐れみと同情も幾許かはございました。しかし、民を見捨て国を捨てて逐電するとは……!」
タクトさんが、少し引いているのが解るが止められない。
「あの教典の気違い染みた愚神として描かれている偽書を完全に否定することで、あれらのような下らない選民思想だけで責任も持たない不届き者達を生み出さなくなるのであれば、不名誉極まりない家名、いくらでも書きましょう!」
言い放った言葉は、自分の気持ちを昂ぶらせる燃料のようだ。
ここまでにしなくてはいけない。
怒りをぶつけるべき者達は、ここには居ないのだ。
だが、もう一言だけ。
「この後書く神話への署名が終わったら……その家名を二度と、呼ばれたくも書きたくもありません」
「ええ、解りました。ありがとう、アトネスト」
テルウェスト司祭が安堵の顔を見せる。
こんなに激高してしまって、驚かれるのも無理はない。
「御礼を申し上げるのは、私の方です。やっと……本当にやっと、全部吹っ切れました。ただ……もうひとつだけ確認したいのです」
「なんですか?」
「……アーメルサスは、なくなるのでしょうか?」
「まだ解りません。その確率は……非常に高いですけどね」
そうか。
望むと望まないとに拘わらず、私だけでなくすべての民が『アーメルサス』ではなくなってしまうのだろう。
私には……まだ少しばかり、皇国への帰化という望みがある。
だが、未だアーメルサスにいる者達はどうなってしまうのだろう。
オルフェルエル諸島に渡れただろうか。
皇国を目指している者はいるだろうか。
ヘストレスティアに辿り着けた者は?
どうか、逃げ出してくれ。
その国は、もう民も信仰も護らない。
完全に『教国』では、なくなってしまった。
なんの力にもなれなくて……すまない。
泣いてしまいそうな私の背に、司祭様のあの掌の温かさが感じられた。
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『カリグラファーの美文字異世界生活』の第514話・『緑炎の方陣魔剣士・続』の弐第150話とリンクしております。
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